羽幌・苫前日本海岸 2つの道の駅
おびら鰊番屋を終え、いよいよ本旅行のメインディッシュのひとつである苫前の町が見えてきた。
だが出発時間の遅れが響き、苫前町にある「苫前町郷土資料館」(次々回紹介予定)に到着した時にはちょうど管理者の方が鍵をかけて帰宅するところであった。
こんな時間に、羆が暴れまわったという山奥まで行くわけにもいかないので、アタックは明日に持ち越して一日目の終わりを迎えることにした。
※ 前半の苫前の写真がどれも小さい写真のままになっていますが、こちらのアップロードミスです。ご了承ください。
グーグルマップより引用。
海岸沿いのオロロンラインを北上し、苫前町へ到達。
地図中央下付近にある黄色い点が「三毛別羆事件」の跡地である。
かなり山の奥だというのがお分かりいただけるだろう。
ちなみに苫前町郷土資料館は苫前町の街中にあるので、現地へ行くのが恐ろしいという人は資料館だけでも訪れてみるといいだろう。
後に個別記事でアップする予定だが、資料館も中々の迫力である。
右上の山中に赤線の枠があるが、そこはかつて「築別炭砿」および「羽幌炭鉱」と呼ばれる炭鉱町のあった地域だ。
事前に軽く調べてあり、車である程度見て回れるようだったので旅行のオプションのひとつに追加してあったのだ。
この炭鉱町については次回の記事で紹介予定。
最初から車中泊を想定していたので、車が一晩中停まっていてもおかしくない道の駅を探す。
最初にたどり着いたのは苫前町の沿岸にある「風W(ふわっと)とままえ」だ。
写真は「上平グリーンヒルウィンドファーム」といって、苫前の町の数キロ南にある風車群だ。
内陸側に入ってから撮影したもので、風車の向こうが海になる。
後にも登場するが、オロロンラインにはこのような風力発電の風車が至る所にあるのだ。
結論から言うと、風Wとままえでの車中泊は取り止めとなった。
駐車場には想像以上に車が密集しており、陽も高かったため、北上して羽幌町の道の駅に賭けてみることにしたのだ。
というわけで少しだけ周囲を散策しつつ羽幌町を目指す。
※猫を撮影するときはフラッシュ撮影厳禁。網膜を痛めると何かで読んだのだ。
道の駅から少しだけ北に移動すると、「とままえ夕陽ヶ丘ホワイトビーチ」が現れる。
日中ならば親子連れやカップルで溢れていたのだろうが、夕方ともなるとご覧の有様だ。
ホワイトビーチとは言うが、白い砂があるのは海岸の砂浜と道路側の間の一部分だけ。
砂の質はこのような感じ。
駐車場には案内板があった。
魚介を中心に肉も野菜も穀物も穫れる。
北海道の自給力に改めて感心する。
最下段に「三毛別」の文字を見る。
30キロも離れているのに身が引き締まる思いだ。
上のとままえ夕陽ヶ丘ホワイトビーチの写真にあった風力発電施設の近くまで寄ることが出来た。
少しだけお邪魔して写真だけとらせていただこう。
こんな巨大なものが頭上でグワングワンと回転していると、羆とはまた違った意味で恐ろしさを感じる。
再び北上を開始。15分程度で羽幌町の道の駅「ほっと♡はぼろ」に到着。
温泉に宿泊施設、バラ園、北海道海鳥センターなどが合わさった比較的大きな道の駅だった。
駐車場も広く、後述のようにこちらを選んだのは正解だった。
こちらがメインの宿泊施設「はぼろ温泉サンセットプラザ」。
時間はまだ少し早かったが、明日のことを思って狭い車中で横になっていた。
すると突然、夜空に響く炸裂音が。
なんと狙いすましたかのようにこの道の駅で花火大会が始まったのだ。
思わぬ歓迎に、返す返すもこちらの道の駅を選んでよかったと思い直す。
しばしの余興も終わり、コンビニで夜食を購入して軽く車中で休息。
眠りにつくも、狭い車内で無理な姿勢で寝ていたために何度となく目を覚ます。
トイレを探しに立ち入ったサンセットプラザの中では、北るもい漁業協同組合のイメージキャラクター「海老名 愛(えびな あい)」さんが迎えてくれた。
が、フロントの方には「宿泊者でないのなら出ていってくれ。トイレは外だ」といった意味のことを丁寧な口調で言われてしまい、いそいそと施設を後にした。
夜も遅かったため怪しまれたのかもしれないが、一般的な道の駅の施設と思って入ったのもまずかったか。
まだなんとなく寝付けないのでカメラテストを兼ねて周囲で撮影を開始。
以下はその時撮影したものと翌朝同じようなアングルで撮影したものだ。
絞りだのシャッタースピードだの、聞きかじった知識で試行錯誤を繰り返す。
祖父から受け継いだこの一眼レフカメラとともに過ごす初めての旅。
まだほとんど使いこなせていないけれど、いつかいい写真が撮れるようになるといいな。
今後は築別炭砿、三毛別(資料館および現地)の記事を順にアップする予定だ。
ぜひともお楽しみに。
道の駅「おびら鰊番屋」 北海道のニシン漁文化
※前回記事までは画像設定が間違っていたらしく、修正したので今回からは少し大きな写真で見れるはず。
ということで今回は写真多め&ちょっと長い。
地図は道央の少し北を拡大したもので、左の海は日本海だ。
秩父別町(赤い四角)を抜け、海沿いの留萌市へ。そこから日本海沿いを北上して小平町(赤い丸)へと達した。
留萌市へ至る山間部には「留萌国道」と「深川留萌自動車道(無料高速)」が並行して走っているが、今回は急ぎでもなかったので下道を利用した。
トラックの車列に挟まれながらの移動であったが、景色は北海道特有の森深い山間部道路だった。
留萌では黄金岬に立ち寄り。
路上駐車も溢れ返るほどの賑わいを見せる観光地だった。
ゴツゴツとした岩場で家族連れが磯遊びに勤しんでいる。
今回の旅では海沿いの記念碑によく立ち寄ったが、これがその一発目となった。
走行するのは石狩市から天塩町まで伸びる通称「オロロンライン」と呼ばれる風光明媚な海岸ルートだ。
ちなみに「オロロン」の由来は「オロロン鳥(ウミガラス)」だが、近年は別種による捕食やエサの減少で危機的状況にあるという。
目指したのは「おびら鰊番屋」だが、実は小平町の市街地からかなり北に行った場所にある。
小平町役場から距離にして北に約14km。車で15分ほど。
北海道では自治体の面積が大きいことが多く、道の駅の「町の境界付近に設置する」という特徴もあって、市街地から道の駅が遠いことがままあるのだ。
そんなわけで北上を続け、「おびら鰊番屋」に到着する。
この頃には陽も充分に高くなり、北海道の夏にふさわしい広い青空と大きな白い雲が美しかった。
おびら鰊番屋は大きく分けて3つの建物から構成されており、写真中央の道の駅部分と
右奥に見える茶色い花田家番屋直売所(食堂など)、および国指定重要文化財「旧花田家番屋(通称:ニシン御殿、写真のさらに右側にある)」からなっている。
道の駅の向かい側は道路を挟んですぐに海になっている。
幕末から明治にかけての探検家であり、生粋の蝦夷地マニアである。
生まれは現在の三重県だが、16歳頃から諸国を旅し、26歳のときに初めて蝦夷地(後の北海道)へと探検に出た。
江戸時代に間宮林蔵や伊能忠敬らの探検があったものの、当時の北海道はまだまだ大自然と猛獣の跋扈する未開の地であった。
武四郎は生涯に6回の蝦夷地探検を行い、そのうち後半の3回は箱館奉行所の役人としてであった。
その探検の中で武四郎はアイヌの文化、松前藩の圧政などを見聞し、明治維新後は開拓使の役人として採用されるほどの知識を蓄えていた。
正直、松浦武四郎は多趣味な上に北海道関係以外にも功績が多すぎて紹介しきれないが、特筆すべきは「北海道」を命名したという点だろう。
武四郎はアイヌへの経緯と五街道の文化を兼ね合わせ、「北加伊道(きたかいどう)」と名付け、これが元になって現在の「北海道(ほっかいどう)」が生まれたというわけだ(詳細割愛)。
※「カイ」とはアイヌ語で「この国に生まれた者」という意味だと伝わってきたが、近年になってそのような意味が無いことが判明している。
ただしアイヌはモンゴル人から「クイ」と呼ばれていたので、それが関係しているのではないかという新説が上がっている。
ちなみに武四郎が「北加伊道」を名付けた地が旅の後半に登場するので、お楽しみに。
武四郎もこの日本海を眺めたのだろうか。
道の駅は鰊番屋に似せたデザイン。
建物の前面と歩道までが屋根付き通路になっていて、雨の日でも車を寄せることが出来る。
なおドライバーは車を停めたあと濡れる模様。
正面玄関。
「ヤン衆」とはニシン漁業に従事した出稼ぎ労働者の俗称で、「雇い衆」の転訛ではないかと考えられている。
当時は蔑称として用いられており、「よそ者、流れ者」というニュアンスが強かったようだ。
もっとも、今となってはニシン漁業文化を象徴する文化的な響きが強いようであるが。
木の匂いを全面に押し出し、そこを大漁旗と吊り提灯で彩るホール。
入って左手側を進むと売店や、ニシン漁に関するちょっとした展示がある。
お土産とともに地元の野菜が売られているのがなんとも道の駅らしい。
2階には展示室がある。
小平の歴史や教育、農業などに関する展示だ。
続いて隣の花田家番屋直売所。
どうもWikipediaの写真を見ると別の建物が写っているので、道の駅共々、最近になって建て替えられたものだろう。
内部は食堂+土産店といった具合。
訪問時の時刻はすでに16時前だったが、昼食を摂っていなかったため腹ごしらえをすることに。
券売機で券を買い、調理場に提出して呼び出しを待つ。
値段はまちまちだが、1000円前後のメニューが多いように見受けられる。
気分的には刺身定食や海鮮丼だったが、せっかくニシン漁文化に触れに来たのであえて「ニシン丼(950円、味噌汁付き)」をチョイス。
呼ばれて受け取りに行き、ニシンの切り身と細切れの数の子が豪快に載せられたボリューミーな外観。
味は……まあまあ(笑)
五つ星レストランではないので当たり前の話で、決して悪くはなかった。
海鮮丼志望だったのも影響したかもしれない。
それよりも料理の衛生状態が少し引っかかった。
あまり言うと営業妨害にもなりかねないので控えておくが、多分耐えられない人は耐えられないようなことだと思われる。
どちらかと言えばスタッフの業務姿勢の結果の産物であるが……。
みなさんも実食の際はそのあたり、ある種の覚悟を持って頂きたい。
ちなみに浜辺である以上仕方がない「ハマベバエ」というコバエが飛んでいたが、そのことではないのであしからず(もっとも、その時点でアウトな人もいるだろうが)。
腹も満たし、いよいよニシン御殿こと旧花田家番屋へと足を踏み入れる。
こういったニシン御殿と呼ばれる家屋は道内の日本海側各地にあったようで、この旧花田家番屋はその中でも最大規模のものだという。
そもそもニシン御殿とは、ニシン漁で財を成した地元の網元が建て、自分の家族と漁師や職人など集団が一緒に住めるようにした居住施設だ。
ただし定義や記録など、判っていないこともまだまだ多いようだ。
最近ではマンガ大賞2016を受賞した「ゴールデンカムイ(野田サトル著)」で見聞きした方も多いだろう。
玄関を入ってお金を払い(券売機だったかも?)、受付のおじさんからパンフレットを受け取る。
横の靴箱でスリッパに履き替え、順路に従って物置のような廊下に入っていく。
ニシン漁に関わる様々な器具が展示されているが、展示に気を取られていると足元に梁のようなものが出てくるので注意だ。
廊下をぐるりと抜けると入り口の対角側に出る。
これが鰊番屋の一番広い部分で、ここに様々な漁師や職人たちが起居していたのだろう。
天井の梁の構成が見事で、気がつけば上ばかり向いていた。
下の囲炉裏には発掘された仏像が。
屈んで小銭を投じると見事に跳ね返ってきた。
一段高くなっているのは「寝台」。
この上にも多くの男達が寝転んでいたわけだ。
ちなみに最初に通ってきた廊下はこの寝台の下を通っている。
iPhoneのパノラマ機能で寝台の上から撮影。
実際は写真よりもっと広く感じる空間だった。
建物は中央の土間によって用途が左右に分かれている。
この写真だと、右側の方がさっきまでの広い空間で、この座敷を含め左側の方は
家主の居住空間というわけだ。
左は建物の外(海に面している)を覗いたところ。
この窓があるのが右の写真の部屋で、勘定係の部屋のようだ。
窓と部屋の位置関係は概ね写真の並び通りだったので、イメージできるように並べてみた。
ちなみに右の写真の、さらに右方向を見た写真が一つ上の座敷の写真である。
勘定部屋の展示物(認定証のみ最初の座敷部屋に掲示)。
最初の座敷写真の反対側から撮ったもの。
奥の人がいる明るい部屋が勘定部屋である。
続いて、更に奥へと進んでみる。
座敷より更に奥は、和洋折衷(この写真はまだ和風)の奥座敷となっている。
より主のプライベートに近づいた空間なのだろう。
多くの部屋は立入禁止なので妙な角度の写真が多い。
こちらはトイレだ。
便器が洋風デザインの瀬戸物で出来ている。
地味にこういう部分が気になってしまうのは何故なのだろうか……。
和式便器の方は二部屋あり、個室だがドアに色ガラスが入っている。
美しいが、人が来たら丸見えではないのか……?
ちなみに小便器に至っては廊下を曲がった突き当たりにある。
それくらい、このあたりがプライベートな空間ということなのだろう。
欄間。
階段の上は「商談の間」。
たとえ家族であっても口出し無用の空間だ。
中庭の様子。
写真ではわかりづらいが、歪みがある所謂「大正ガラス」だ。
明治から大正の時代にかけて製造され、技術的問題で歪みがついたのだが、今となってはそれが一種のレトロさとして親しまれている。
近代建築などを訪れる機会があったときには、注目してみると良いだろう。
その他の部屋(右隣の写真が各部屋の説明板)。
立入禁止が多いのが残念だ。
屋外にも雑多な感じで展示物があるが、一部は海岸の風雨に晒されてもうボロボロである。
いかがだっただろうか、おびら鰊番屋。
あくまでも道の駅であり、コレだけを目当てにここまで来る人はあまり居ないだろうが、道中の一服と腹ごしらえのついでにニシン漁文化の空気に触れてみるのも、また一興だろう。
旧妹背牛村役場と道の駅「鐘のなるまち・ちっぷべつ」 旅の始まり
さる夏の連休、祖父の形見の一眼レフを片手に道北を目指した。
主目的は日本最悪の獣害事件現場とされる「三毛別」の現地訪問と、
北海道最北端にして日本最北端の地である「宗谷岬」の到達だ。
それらを中心に記録に収めながら、日本海沿岸の所謂「オロロンライン」を北上した。
カメラの練習も兼ねて主目的以外の事物も随所で撮影したので、それらを今後の記事で列挙していく予定である。
なお、メインの三毛別と宗谷岬以外はある程度まとめた形でのアップになると思われるが、ご了承いただきたい。
……で、さっそく最初に見つけたのがこちらの妹背牛郷土館(旧妹背牛村役場)である。
自宅を出発して幾つかの街を抜け、突然目の前に現れた物件であった。
明治期フランス風ということで、シンプルながらも洒落たデザインだ。
横の説明碑によると、元の建物が完成したのは1931年。
しかし現在の建物は新庁舎が1985年(昭和60年)に完成したときに、記念に復元されたものだそうだ。
写真二枚目の奥に見える白っぽい建物が新庁舎。
開館日や展示物については以下のリンクを参照のこと。
北海道-妹背牛町ホームページ|スポーツ・文化・教育 | 文化施設 | 郷土館
当日は休館日かつ休日であったため、申請して開けてもらうことも不可能であった。
妹背牛町を過ぎ、次の町へと向かう。
ちなみに北海道の平野部は写真のような景色がほとんどだ。
山間の広大な田園地帯の間を走り、町から町へと移動する。
これは細い道路での撮影だが、大きい道路を通るにしても、北海道で長距離移動の際は
早めの給油・トイレ休憩を心がけたほうが良い。
続いて見えてきたのは、秩父別町の道の駅「鐘のなるまち・ちっぷべつ」だ。
大きなベルのついたアーチと、高い時計塔が訪問者を出迎えてくれる。
敷地内には温泉&宿泊施設の秩父別温泉「ちっぷ・ゆう&ゆ」がある。
「ゆう(遊)&ゆ(湯)」といった意味合いだろうか。
近くには公園、体育館、陸上競技場などもあり、体を動かした後に温泉でさっぱりできそうだ。
日帰り入浴も可能で、大人500円(子供250円)とリーズナブル。
ただし新千歳空港から電車(または車)で1時間45分と、道外からの来訪者にはちょっと遠く感じられるかもしれない。
※なお北海道出身者にとっては「ちょっと遠いかな」くらいの印象。
とはいえ、北海道の田舎町でゆったりと温泉と料理に癒やされたい方にはオススメだ。
秩父別温泉ちっぷ・ゆう&ゆ|北海道観光|温泉宿|YOU 湯|お風呂
どうやら時計塔に入れるようで、せっかくなので登ってみた。
連休で思いのほか来訪者も多かったが、ほとんど時計塔に注目する人はいなかった……。
そもそもは街の開基100年を記念して建てられた塔だ。
北海道にはこのような「百年記念塔」が数カ所あり、このあと訪れる稚内市にも建っている。
玄関の戸を開けてすぐの様子。
中央に螺旋階段があり、これを登って展望室まで行く。
ベンチの下のガラス窓はタイムカプセルの覗き窓だったが、ご覧のように曇りまくっていて何も見えなかった。
当日は晴天で気温も高かかったうえに、塔内の窓はマイマイ蛾の侵入を防ぐために開放厳禁だったため、その影響もあるのかもしれない。
仕方なく汗を拭きながら、なかばサウナと化した時計塔を登ってゆく。
もう何周したか。
最上部の手前だけ一時的に平らになっている。
あともう少しだ。
そしてついに展望室に到着。
願いの叶う「しあわせの鐘」。
せっかく登ったのだ。ここは大願成就と行こうじゃないか。
5回に合わせて引いてみたが……まったく言うことを聞かない!
ロープの取り付け方が悪いのか、軽く引いてもほとんど揺れず、鳴らすために強く引くと今度は重い鐘が止まらなくなる。
結果「コン……ガコン……ガン、ガン、ガコーン……ガコーン、ガーン(以下略)」。
……願いがたくさん叶いそうだ。
思い出記録帳にはコメントが残っている。
度々訪れる人はいるようだ。
窓には職員の悲痛な叫びが記されている。
以下に眼下の景色をいくつか。
気になったのはこちらの景色。
時計塔が街で最高のランドマークかと思いきや、消防署の塔がほぼ同じ高さという意外な結末。
時計塔のアイデンティティがやや薄れる気がするが、消防署の心粋なオマージュなのかもしれない。
展望室から下を覗く。
あとはここを下るだけだ。
時計塔の街を離れ、旅路はさらに北へと向かう。