もう一つの北端 ノシャップ岬
いよいよ日本最北端の町、稚内市へと足を進める。
まず最初に訪れるのは日本の北端の一つ、ノシャップ岬である。
最北端ではなく、あくまでも「北端」だ。
位置関係を見てみよう。
恒例のGoogleMap。稚内市の北部を拡大したものだ。
左の半島の先が、件のノシャップ岬である。
右上に伸びているの半島の先が、日本の『最』北端である宗谷岬だ。
市内の道路標識には日本語・英語・ロシア語の表記がある。
宗谷海峡を挟んでわずか40km先には、ロシアが実効支配している(国際法上はどこにも帰属していない)サハリン(樺太)がある。
フェリー便も出ているということで、歴史的な背景は別として、距離による関わりが強いのだろう。
市内から台地の上に見える「稚内市開基百年記念塔」(右側)。
霧の中でライトアップされ、サイリウムのように光っている。
ここは次か、その次の記事で紹介する。
ちなみに日本最北のコンビニエンスストアはこちらの「セイコーマート えびす店」。
北海道外の方には馴染みがないかもしれない(茨城と埼玉には進出しているらしい)が、北海道で最強と言ってもいいコンビニである。
※国内コンビニ顧客満足度ランキングは2011年から4年連続1位だそうだ。
小規模なスーパーのような品揃えで、野菜なども売っている。
また、店内調理施設「ホットシェフ」の満足度が非常に高い。
揚げ物や丼モノを始めとした温かいメニューが保温ガラスケースの中に作り置きしてあり、客はそこから好きな商品を取り出してレジで会計する。
筆者のオススメはフライドチキン。
味・量ともによし。なのに300円でお釣りが来る。
ぜひ道外の方が北海道にお越しの際は、セイコーマートを利用してほしい。
あえて苦言を呈するなら、「24時間営業の店舗が少ない」ということ。
そして、「どの店舗にもホットシェフが存在するわけではない」ということ。
夜中に小腹がすいたから近くのセイコーマートに行ったらホットシェフが無かった……というか店自体やってなかった、ということがままあるのだ。
そして到着したノシャップ岬。
中央のイルカのモニュメントは「宗谷海峡をイルカが通過した」という伝承に基づくらしい。
実際はもっと暗かったので、露光時間を上げてみた。
これは上げすぎて昼間のような明るさに。
カタカナで表記されることが多いが、漢字の「野寒布岬」という表記もある。
ちなみに北海道の最東端である根室の岬は「納沙布岬(ノサップ岬)」と、非常に似た名前をしている。
どちらかの岬に行きたくて道を尋ねるときには注意しよう。
間違って約400km離れた別の場所に案内されてしまうかもしれない。
宗谷海峡の夕景色。
いくぶん風が強い。
ノシャップ寒流水族館の灯台。
となりには稚内市青少年科学館がある。
短いが、これでノシャップ岬の記事は終わり。
次は先程の「開基百年記念塔」のある稚内公園の記事か、別の稚内市内の記事をあげようと考えている。
また、今まさにゴールデンウィークの旅の出発の直前にこの記事を書いており、またしても新しい記事ネタが溜まってしまうことになる……。
さらに更新頻度をあげていかなくては。
ではまた次回の記事で。
オロロンライン 旅路は北へ
ここからは少し詰めて、オロロンラインを一気に北上した記事にする。
更新頻度が低いくせに、ネタはどんどん溜まってしまっているからだ。
すでにこの道北旅行の後に2つの旅行ネタが溜まっている。
更新速度も挙げねば。
というわけで苫前から羽幌へ戻り、初山別まで移動した。
ここは「しょさんべつ天文台」。
みさき台公園から北を望む。
連休ということもあり、オートキャンプの客が結構いた。
天文台の前の店で牛乳アイスを購入。
やや粘り気のある甘いバニラだ。
初山別の次は遠別町だが、
残念ながら事前の軽い調査で目立つものがなかったためスルーとなった。
ここでオロロンラインが内陸側へカーブし、しれっと「天塩バイパス」という名前に変わってしまう(国道232号であることには変わらない)。
海側を走るためにはこれまでの国道232号を離れ、道道106号に乗らなければならない。
これがまたクセモノで、なんの案内もなく道が変わってしまっているのだ。
地図で言うと天塩中学校と左上の道の駅「てしお」に挟まれた交差点で左折し、天塩川にぶつかったら右折すれば良い(上図参照)。
筆者はiPhoneのナビで次の目的地に設定していたため、気がついたら曲がることが出来ていた。
ちょうど道の駅もあることだ。
休憩がてら、スタッフにこの先の行程を確認してみるのもいいだろう。
ちなみに天塩川を渡った先で海に面しているのは幌延町なので注意。
つまり天塩町はもう終わりである。
天塩川に沿って道なりに北上すると見えてくるのが、この「オトンルイ風力発電所」だ。
発電所と言っても建物があるわけではなく、約3kmに渡って風力発電のプロペラが設置されている。
苫前であれだけ圧倒されていたプロペラ。
しかもこの数が整然と並んでいる様は圧巻の一言である。
写真中央。
小さなフレンズが旅の行く末を見守ってくれていた。
ちなみに一帯は国立公園に指定されている。
ちなみに地図を見るとわかるが、この位置からだと礼文島はちょうど利尻島の後に隠れるような位置関係になっている。
そして日没が近い。
オトンルイからまた少し北上すると、北緯45°を表すモニュメントが登場する。
こちらは道の反対側の看板。
直線で220kmほど離れた札幌市がだいたい北緯43°あたりなので、わずか2°の差でこれだけの距離になる。
改めて、地球の大きさを感じさせてくれる。
ちなみにオトンルイのすぐ北からこの先12kmほどは海沿いの直線区間になる。
人工物も少ないため、晴れた日には絶好のドライブコースになることだろう。
※ちなみに日本一長い直線道路は美唄市~滝川市を結ぶ国道12号である。
全長は29.2kmという長大区間だ。
また少し先にはシェルターが見えてくる。
海沿いということで、冬期には暴風雪もあるのだろう。
中央部が膨らんだ、クロワッサンのような形をしている。
明るいトンネル、という不思議な印象だ。
正式名は「浜里パーキングシェルター」というらしい。
中央部がふくらんでいるのは、猛吹雪の際に車を待機させるスペースのためであろうか。
さあ、ここからは一度オロロンラインを離れて内陸へ向かう。
いきなり突然の大平原。
ここは北海道北部に広がるサロベツ原野。
動物注意の看板。
北海道内でもバリエーションがあるが、道外各地にも様々な種類があり、地域の特色が見えて面白い。
たまたまサロベツ湿原センターを発見。
残念ながら閉館。
別に裏手の湿原の方は立ち入り制限がされていないので、見るだけなら見れそうだった。
ただしまったく人気のないこの草地の中へ、たった一人でこの時間に入っていく気にはなれなかった。
まして、ここ至るまでに羆の恐ろしさを散々意識してきたのだから。
というわけで写真をまとめて上げるのみにする。
サロベツ湿原センターを抜けたあとは原野を見渡せるという「宮の台展望台」を目指した。
GoogleMapでたまたま見つけたので、せっかくだから寄ってみようと思ったのだ。
GoogleMapのナビに騙されているんじゃないかと思わせるような怪しい道へと誘われていく。
この脇道に入る前にも何の案内もないんだもの。
結果から言うとこの道で合っていた。
それにしても人を招き入れようという気概の感じられない展望台である。
駐車場に到着。当然誰もいない。
案内板によれば宮様が訪問された、ということで「宮の台」らしい。
なかなか由緒ある展望台だが、もう少し案内など整備したほうが良かったのでは?
展望室はガラス張りで、革張りのベンチなどもあって中々快適そうだ。
ベンチが手すりにロープで固定してあるのは、盗難防止のためだろうか。
さすが北海道の大原野。なかなか壮観な景色である。
遠くには件の利尻山が見えている。
展望台から見下ろした公園内。
ブランコの残骸のようなものはあったが、子供を連れてきて楽しめるという類の公園ではない。
さあ、これでオロロンラインを北上した記事を終えたいと思う。
この宮の台展望台は豊富町であり、次回はいよいよ稚内市へ突入する。
北海道最北にして日本最北の街であり、それだけに見どころは多い。
では次回の記事に期待されたい。
三毛別羆事件現地 日本最悪の獣害事件
いよいよ来た。
この旅行のメインイベントの一つ、三毛別羆事件の現場(への道程)。
前記事同様、事件については特に説明しない。
事件が発生した1915(大正4)年当時の地名は「北海道天塩国苫前郡苫前村大字力昼村三毛別御料農地6号新区画開拓部落六線沢」というらしい(wikipediaより)。
現在のところ、地名は行政的に消えたり残ったり、地元の人が呼んでたり、事件名で有名になったりとなかなかややこしい。
まあ長ったらしいので、『当時は「苫前村の三毛別の六線沢」で発生し、そこは現在「苫前町の三毛別の三渓」と呼ばれている』くらいの認識でいいと思う。
とにかく、見学目的で向かう場合は苫前町の「三渓」という場所を目指せばいい。
上の写真には「三渓」と「力昼」の地名が写っている。
力昼といえば、前記事のトドが打ち上げられた海岸ある場所だ。
事件の内容のせいか、あまり大々的に宣伝するつもりはないのかもしれない。
距離やクマ出没の可能性も考えると、現地へは最低でもバイクくらいは必要になりそうだ。
ベアーロードに入る最初のポイントさえ間違えなければ、道なりに現地まで向かうことが出来る。
道中の案内といえば、この「ベアーロード」という表示くらいしかない。
こんなに和やかな事件ではないのだが……。
現場へ近づくにつれてそれらしい単語が増えてくるが、カーナビやGoogleMapなどなんらかのナビゲーションがないと迷う可能性が強い。
日中であれば(わざわざ夜に行く人もいないとは思うが)道中の農家の方などに訪ねてみるのも手だろう。
筆者はカーナビ頼りだったが、なぜか現場を去る際に突然カーナビがお亡くなりになってしまった……。
道中は築別炭鉱に向かうときと、さほど景色が変わらない。
しかし所々に当時を偲ばせる地名や物件が残っている。
この写真は撮る位置を間違えているが、両サイドがワイヤーロープになっている場所は射止橋ではない。
その奥のピンクの欄干がある部分が正しい位置だ。
先程の写真の左奥に建っている倉庫。
ここで対岸に現れた羆を手負いにさせることができた。
この後、羆はマタギの手によって山中で射殺される。
ここで道中の案内をいくつかご覧いただこう。
「ようこそ熊嵐(くまあらし)へ」という、割と笑えない看板。
事件の別名らしく、本事件を扱った吉村昭氏の書籍名にもなっている。
ちなみにクマを殺した後に天候が急変することを「熊風(くまかぜ)」というらしい。
風とか嵐とか、パッと見ではややこしい。
ちなみに本事件の羆が射殺された後にも、突然の猛吹雪が吹きすさんだそうだ。
錆のせいか、おどろおどろしい羆の顔が来訪者を迎え入れる。
ベアーロードの可愛らしい看板(苫前町管理)もあれば、突然こういった恐ろしげな看板(北海道管理)も現れる。
数枚見てもらってお分かりだと思うが、案内板に統一性はほ皆無だ。
ベアーロードの看板くらいは似たようなデザインで何枚も貼り付けてあるが、三毛別事件を紹介したいのかどうか、意図が伝わりにくい。
いっそ北海道のブランド「熊出没注意」とコラボレーションしてしまうのも手だとは思うのだが。
道中、好天であるにも関わらず突然の雨。
「熊風」という言葉が頭をよぎる。
途中で三渓神社を発見。
他にも神社を見つけるたびに参拝したが、ここは少し特別かもしれない。
なぜならここには、三毛別事件の慰霊碑があるのだ。
本事件では胎児を含む7名が死亡、3名が重傷を負った。
獣害事件としては日本で最悪の被害をもたらしている。
施主として大きく名前が掘られているのは、事件当時に対策本部が置かれた大川与三吉
氏の息子である大川春義氏。
事件の影響でヒグマに対して強い復讐心を抱き、生涯で100頭以上を仕留め、北海道の獣害被害減少に貢献した伝説的な猟師である。
その一方で、仕留めた羆(当時は高価で取引された)を住民に無償で譲ったり、犠牲者のために慰霊碑を建立したり、「本当に悪いのは羆ではなく、自分たちの方ではないか?」と自問自答したり。
決して羆に対するシリアルキラーのような人間ではなく、義侠心に溢れた方だったようだ。
前記事の苫前資料館にあった「北海太郎」を仕留めたのは、この春義氏の息子である
高義氏であり、羆と闘い続けた一族なのかもしれない。
なお、春義氏は1985年の三毛別羆事件の70回忌の際に突然倒れて亡くなったという。
1977年に計102頭を仕留めたところで銃を置いたが、そのうち単独で仕留めたのは76頭である。
生年は1909(明治42)年(明治43説もあり)ということなので、一人で仕留めた羆と
同じ数の76まで生き、この世を去ったことになる。
ただの数字の偶然ではあるが、なんとも因縁深い話である。
二礼二拍手一礼。
これを覚えているだけでどこに行っても恥ずかしくない。
フレンチのマナーなんかよりよほど大切なことだ。
ついに舗装がなくなった。ここが現地への入り口だ。
残りは200メートルほど。
いよいよ現地が見えてきた。
現地到着。右手側は軽く駐車場のようになっている。
ありがたいことにすでに来訪者がいた。
配置はこんな感じ。
左下の砂利道から入ってくる。
目立つのは中央奥にある再現家屋くらい。
駐車場側から全体を見渡す。
バイクが停まっている辺りの左に、さきほどの砂利道が来ている。
出ました。
これがこの場所で一番の目玉(?)。
羆を再現した像である。
煽りで撮ると恐ろしさが増す。
サイズまで厳密に再現したかは不明だ。
なにやら修復中のようであった。
先輩、下半身弱いっすね。
家屋の入り口から左側を覗く。
内部は当時の暮らしぶりを再現してある。
右側の壁にはスタンプやパンフレットが置いてある。
未だにここが羆のテリトリーでありことを感じさせる警告文。
家屋裏手の斜面。
そのあたりからひょっこりと現れてきそうで背筋が寒くなる。
こんなふうにね。
他にも羆に引っかかれた木の肌などが残っていたようだが、再び雨も降り出してきたために撤退を余儀なくされた。
ここまで煽っておいてアレだが、実際の現場はここよりもう少し山奥だったり、もっと手前にあったりする(羆が複数箇所に現れたため)。
この場所は代表地点のような役割で整備されたのだ。
わざわざ何度となく訪れる場所ではないし、アクセスを考えると、もう訪れることはないかもしれない。
それでも北海道で生まれ育った人間として、一度くらいは訪れておきたい場所であった。
我々の生活は、本州以南に暮らす人々よりも一層、大自然と隣り合わせなのだ。