稚内駅と北防波堤ドーム 終りと始まりの地
数百台(?)と思われる車が駐車しており、多くの人が同じような方法で電車やフェリーの始発を待っていると考えられる。
夜中に地元の若者が来て、駐車場の中央あたりで乱痴気騒ぎを起こして帰っていった。
他に娯楽がないのかもしれないが、寝静まる人々の中での花火や大音響BGMは本当に迷惑である。
眠りにつく前に、周辺の見所として稚内駅と北防波堤ドームを見学。
例に漏れず、翌日の朝写真と混ぜ合わせてお送りする。
写真を見てわかるように、道の駅が併設されている。
時間も時間なので交通量はほとんどゼロ。
左の写真にも少し写っているが、この看板の右側に大きな駐車場がある。
右の写真は駅構内。
2階には映画館が併設されている。
そして何と言っても、稚内駅といえばJRの終点(あるいは始点?)。
一つ前の写真に写っていた看板の背後のコンクリートブロックが、この写真の中央に写っているコンクリートブロックだ。
ここがまさに端部。
ここから鹿児島の南端まで線路が続いてるのかと考えると、ちょっとした感動である。
ホームにも、北端を示す宣伝がある。
札幌までは特急自由席+乗車券で9,930円。
新千歳空港までで同10,390円。
グーグルマップでルート(稚内→新千歳)を調べると、電車では「8時間強で8,000円弱」となっていた。
時期やルートによって多少は変動するだろうか。
また、稚内にも小さいが空港があり(後に行く)、同じくグーグルマップの空路では「55分で44,000円~」となっていた。
なお、車でまっすぐだと5時間半(370km)程度らしい。
なお線路はあそこで途切れているが、駅構内にはレール(本物?)が入り口の方まで続いている。
こちらが入り口側。
建物の中から伸びてきている。
これが駅のすぐ前の終端部。
もしかしたらかつてはここまで伸びていて、現在は記念碑的な位置づけなのかもしれない。
……というか、もっと言うと、まだ線路の跡らしきものが続いている。
写真のレールの奥に線が伸びているのがわかるだろうか。
やはり伸びている。
片方は草地にぶつかって途切れているが、右側はまだ奥へと続いてる。
やっと道路にぶつかって終了した。
ある意味ではここが線路の本当の終端部かもしれない。
奥には件の駐車場の一部が見えている。
ちなみに駅前の黄色い終端部から先は、このようなブロック(もしくはタイル)でレールを象っているだけだ。
デザインととしてこんなところまで中途半端に伸ばすとは思えないので、やはりかつてはここまでレールが来ていたと考えるのが自然だろう。
駅周辺の地図。
赤丸が付いている「現在位置」から少し右側に行った、縦の道路とぶつかっているところが、さきほどの「タイルレール」の終端。
※この謎の延長線路については下の方で判明します。
駅のすぐ横には海鮮レストラン兼市場がある。
1階は市場。
新鮮な魚介や果物が手に入る(郵送も可)。
そしてこちらが北海道では有名な「熊出没注意」というブランド。
キーホルダーにステッカー、灰皿やマグカップなど実用品を取り揃えている。
大きめの土産物コーナーがあるところならだいたい取り扱っており、このご時世なら通信販売での入手も可能だ。
三毛別はこれとコラボして町おこしをしたりしないのだろうか。
……扱うにはブラックすぎるか?
ちなみにこのブランド、中国人観光客に大ウケとのこと。
日本語ではバラバラにすると「熊、出没、注意」だが、中国語では「熊出、没注意」と読めて「不慣れな運転手が運転しています。注意してください」という解釈ができるからだそうだ。
向こうには車に貼る若葉マークに相当するステッカーがないため、代わりに使われているそうだ。
同じ漢字文化圏だからこそ使えるインターナショナルなジョークグッズだ。
続いては北防波堤ドーム。
こちらの写真は駅前駐車場から撮影しており、駅との距離がかなり近いことがわかる。
実際、駅から歩いて5分程度だ。
↓こちらの記事にも登場した、
「土木学会選奨土木遺産」に選定され、北海道遺産にも認定されている。
これは何かと言うと、いわゆる防波堤だ。
1931年から5年の歳月をかけて構築され、70本のクラシカルな柱と長いドームで構成された全長427mの堂々たる大型防波堤である。
それで何か残っているのか?と問われれば、特に何もないというのが答えだ。
もともと稚内と樺太の大泊を結ぶ「稚泊連絡船(ちはくれんらくせん、1923~1945)」の乗客を波から守るための施設であり、言ってみれば単なる「壁」である。
しかしながらその造りは重厚かつエレガントで、コンクリート製でありながらデザインと機能の両立を図っていた昭和初期の建築様式が垣間見えている。
設計は北海道大学出身で、当時北海道庁の技師であった土谷実(1904~1997)。
ドームの設計年は昭和6(1931)年ということで、弱冠26歳(なんと現在の筆者と同年齢)でこの重厚な建築物を手掛けたということがわかる。
しかもたった二ヶ月で強度計算から図面までを終わらせたという。
う~ん、昔の人はすごい(などとは言っていられないが)。
ちなみにデザインのスケッチ(ラフ画程度?)は土谷の上司であった平尾俊雄(東京帝国大学卒、当時「網走築港事務所長兼稚内築港事務所長」)が描いたもので、それを具体化したのが土谷の仕事だったため、土谷自身、後年「あれは平尾・土谷の合作」と述懐しているという。
そしてこのドームについて、一つ前の記事を思い出してもらいたい。
↑この記念館で見た当時の写真。
この左下の写真、ドームの前に建物が建っているのが見えるだろうか。
実は当時、このドームの前には「稚内桟橋駅」という駅が存在し、稚内駅から線路を引いていたというのだ。
稚泊連絡船の乗客たちは稚内駅から列車で直接ここまで来て、ドームの下を歩いて船に乗り込んでいった。
つまり駅前で見た謎の延長線路の跡は、稚内駅と稚内桟橋駅を結ぶための線路だったのだ。
現在、防波堤の前はただの道路になっている。
ドーム横には階段があり、堤防の上から海を望むことが出来る。
階段から見た駅の方向。
見づらいが、写真中央の真っ白い四角が駅構内の明かりだ。
あの辺りから写真左手方向にあった稚内桟橋駅まで線路が来ていたのだろう。
せっかくなので、当時に思いを馳せながら一番奥まで行ってみることにした。
何事も「端部」が気になってしまうのは性分なのだ。
これはタモリさんの「縁(へり)好き」と似ているかもしれない。
桟橋の先の方には海上保安庁のいわみ型巡視船「れぶん」が碇泊していた。
2014年に竣工し、2016年に稚内(第一管区)に配属された新鋭の巡視船だ。
なおこの写真撮影時は7月ごろだが、2ヶ月後の9月26日に同じく第一管区の室蘭に転属になったという。
ドームの造りは最後までずっと同じだったが、最後はコンクリート壁で塞がれていた。
もう一度当時の写真を見てみよう。
ちょうどフェリーが停まっているのが巡視船「れぶん」と同じ位置だ。
こちらは桟橋の先の方から振り返る形で写真を撮っており、ドームの終端が当時は塞がれていなかった事がわかる。
なお、現在は写真中のフェリーとドームの間の岸壁の所に柵が設けられており、この位置から撮影を行うことは不可能に近い。
その柵がこちら。
左にドーム、右側に巡視船「れぶん」がいる。
柵から当時の撮影場所方向を望む。
岸壁自体は今も残っているので、柵を乗り越えて際を歩いていけば当時の撮影場所に行けなくはないが、かなり危険なのでやめておく。
巡視船の前にはかつて宗谷本線で活躍していたC55形蒸気機関車の転輪が飾られている。
以前は機関車自体が静態保存されていたそうだが、塩害腐食のために(そりゃそうだ)1996年に解体されてしまったという。
どうして日本の屋外展示はいつもこうなるのか。
さて、ノシャップ岬側の観光記事はこれで終了となる。
次回はいよいよ真の日本最北端、「宗谷岬」へと向かう。
※実際の時間的には、ノシャップ方面の朝写真より前(早朝)に行っている。
道北旅行記事も残すところ2,3記事程度となる。
相変わらずの牛歩更新となるが、最後まで是非お付き合い頂きたい。
開基百年記念塔&北方記念館 最北の幻想空間
さて、いよいよ「稚内市開基百年記念塔」へ向かう。
稚内市はもともと1879年に宗谷村が設置されたことに端を発している。
市となったのは1949年で、開基百年&市制30年を記念して1978年に塔が建設された。
つまり、もうすぐ築40年となるのだ。
見よ、この神々しさを。
日本最北の高層建築物、ということで間違いないだろう。
実は建築基準法には「高層建築物」を指す明確な基準は無い。
消防法や電波法、都市計画法でも高層建築物の基準が異なるため、一貫して「◯メートルまでが高層建築物」という決まりはないのだ。
だが一般的には高さ60メートルまでを「高層建築物」、それ以上を「超高層建築物」としているようだ。
ちなみに地方公共団体レベルでも高さを定義している場合もあるそうなので、曖昧もいいところである。
もう個人レベルで高層だと感じたら「高層建築物」ということで良いのではないだろうか。
本記念塔は高さ80メートルということで、一般的に考えても「高層建築物」に分類されるだろう。
展望台部分は海抜240メートル。
360°の大パノラマが楽しめる……はずであった。
塔の基部の様子。
末広がりになっている1階と2階部分が北方記念館であり、その上部のタワー部分が百年記念塔となる。
もう夜8時を過ぎているというのに、そこそこ来場者がいて驚いた。
小さい子供を連れた家族までいたのだ。
三連休ということもあり、夜景目当てで訪れた方も多かったのだろうか。
開館は4月の終わりから10月末日まで。
入り口の表示によると、4・5・10月は夕方5時までしか営業していないようだ。
6~9月は夜9時まで営業。
料金は高校生以上400円(夜間200円)とのこと。
詳しくは以下のリンクを参照して頂きたい。
市のOBかボランティアのようなご老人方に迎え入れられ、さっそく剥製とご対面。
横の馬車の展示を抜けて展示室へと入る。
個々の展示の解説はしないが、全体的な印象としては「思っていたよりも見応えがある」という感じだ。
じっくり見て歴史と文化に対する知識を深めたいところだったが、いかんせん時間が時間である。
屋根が斜めになっている部屋は、ちょうど記念館外観の「裾野(すその)」に当たる部分だ。
こういうところまでスペースをしっかり使っているのは感心する。
1階は主に「北海道の歴史と文化」に関する展示である。
階段で2階へ上がる。
2階は「樺太の歴史」にまつわる展示がメインだ。
これらの写真はぜひ覚えておいてもらいたい。
(というか後の記事でも掲載すると思うが)
これは、稚内公園の記事で街を見下ろしたときに見えた「北防波堤ドーム」の現役時代の姿だ。
かつてはこのようにフェリーの発着場として機能していたのである。
こちらも前記事の稚内公園に登場した「九人の乙女」に関する展示。
戦後の電話交換台しか用意できなかった辺りに苦心を感じる。
左は実際に自決した「九人の乙女」。
右はこの事件を描いた1974年の映画「樺太1945年夏 氷雪の門」のポスター。
事件現場となった真岡郵便局の外観写真。
左が終戦後のもので、割れた窓ガラスなどに戦火の匂いを漂わせている。
右の写真は戦前の真岡郵便局。
まだ外観もきれいで、日本語で書かれた「局便郵岡真」という看板が据えられている。
当時の業務風景と九人の自決場所。
写真の電信台が真岡郵便局のものか参考写真なのかわからないが、現地写真だとすればこの電信台の周囲で乙女たちは殉職したのだろう。
他にはこのような展示も。
木々の間に立つ、菊の御紋のついた将棋の駒のような石。
1905(明治38)年。
日露戦争後に日本とロシアの間でポーツマス条約が結ばれ、樺太の南半分を日本領とすることが決まり、このような標柱が国境に設置された。
日本側には日本語で(御紋の下に「界境」の文字)、ロシア側にはロシア語でそれぞれ境界であることを示している。
左側面にはロシア語で何か書かれているが、ロシア語はさっぱりである。
右側面には1906(明治39)年に設置されたことが記されている。
……と思いきや、偶然にも玄関で特別展示があり、標柱のレプリカが展示してあった。
先程のものは「天第四號」で、こちらは「天第一號」。
側面のロシア語の下に、四號では見られなかった数字らしきものが見て取れる。
ということは上のロシア語は「No.」のような意味を表しているのか。
裏面もバッチリだ。
ロシア帝国の国章を簡略化したような「双頭の鷲」の絵図(むしろ現在のロシア連邦の国章に近い)。
上のロシア語は「ロシア」っぽいが、綴りは「РОССИА」らしいので一文字合わないように見える。
下については「1906」以外さっぱりである。
(おそらくは「境界」的な意味合いだと思われる)
ではいよいよエレベータで最上階の展示室へと向かおう。
エレベータ乗り場は玄関の前にしか無いようなので、一度玄関まで戻る必要がある。
日立製エレベータ。
ボタンも1階と展望室のみというシンプルなもの。
自慢げにこんなものが貼ってあるが、海抜の高さで都庁に並ばせるのはズルい気がする。
建物自体は80メートルしか無いので、この写真比較もデタラメだ。
そんな事を言っているうちに緊張の展望室へ。
なんということだろうか。
エレベータを降りて目の前に広がっているのは、一面エメラルドグリーンの世界だ。
あっちもこっちもエメラルドグリーン。
霧が展望台の周囲を覆っており、そこにライトアップの光が散乱しているのだ。
映画「タイタニック」で、船長が操舵室に籠もったまま海中に沈むシーンを思い出していた。
カメラなので実際よりも明るく写っているが、光の当たっていない方面は深夜の病院並みの恐ろしさがあった。
地上を見下ろしても光しか見えない。
肝心の夜景はと言うと、霧に包まれているのでほとんど見えない。
これもカメラだからなんとなく写っているだけで、肉眼ではほぼ見えなかった。
とは言え、夜景が見れなくても不思議な充実感に満たされた特別な体験であった。
稚内観光で一番強く記憶に残ったのは、この幻想的な情景だった。
夜、誰もいない展望台で一人、エメラルドグリーンの光りに包まれる。
いつでも体験出来るわけではないだろうが、ぜひ一度感じてもらいたいものだ。
しばしの幻想体験の後、再びエレベータで地上へ。
受付に頼めばこんなものがもらえる。
「いくらだろう」と思いきや、タダで頂けた。
だがそれもそのはず。
B5くらいのサイズに白黒コピーした、しかもこの地図ではないもの(樺太の地図ではあったが)だったのだ。
イメージ的には小学校の先生が配るプリント。
しかし内容的には写真のものよりも良かったかもしれない。
欲しい方はぜひ稚内市開基百年記念塔の受付を訪れて頂きたい。
とにかくこの「塔と霧とライトアップのコラボレーション」は、稚内市で一番の感動だった。
似たようなアングルでも、つい何度もシャッターを切ってしまった。
塔の前は「文芸の小径」という遊歩道になっている。
道の脇に、地元の人が読んだと思われる句が看板となって並んでいる。
(※右の写真の石碑とは別)
道の先の展望デッキからの眺め。
写真には写っていないが、その辺に鹿が何頭もいた。
翌日訪れた記念塔。
やはり霧に包まれている。
これが文芸の小径と、その脇の句。
塔裏側あたりにある北方植物園。
広場になっていて、岩やら植物が配されている。
塔の真裏。
尾根伝いに、霧中の電波塔群が見える。
せっかくなので(?)行ってみることに。
路肩からの転落をも予感させる道路。
筆者は電波塔マニアというわけではないが、なんとなしに撮影してみた。
これがマニアの目に止まってもらえれば言うことはない。
奥は舗装が切れていたので引き返すことに。
振り返れば霧に包まれた記念塔。
この複雑な起伏を見ると、ここが「宗谷丘陵」の一部であることを思い知らされる。
実はこの宗谷丘陵も旅の目的の一つであった――――ということは、おそらく後の記事で触れることになるだろう。
おそらく様々な部門で「日本最北」を獲得しているであろう開基百年記念塔&北方記念館。
夜景を楽しめる日もそうでない日も、訪れた者に忘れ得ぬ体験をさせてくれることだろう。
稚内公園 望郷の慰霊展望台
翌朝に向けて眠りにつくにはまだ時間があったため、ダメ元ではあるが稚内公園に向かうことにした。
ちなみに翌日に再訪しているため、写真は昼だったり夜だったり見やすいものを使っている。
夜間手持ち撮影なので画が荒いものがあるが、ご了承いただきたい。
高台にある公園へ至る坂道はちょっとわかりづらいところにある。
まあ案内板に注意していけばなんとかなるだろう。
百年記念塔や展望台などを含めて「稚内公園」のようだ。
市営施設にしては珍しく午後九時まで営業。
夜景を楽しめることを考えてのことだろうか。
それがまさかあのようなことになろうとは……。
坂道は途中で丁字路にぶつかって2つに分かれている。
一方通行なので左に行くしかないが、右の道はグルっと回って展望台から出てくるだけの話だ。
が、このあと道を間違えて展望台へと向かってしまう。
事前調査が重要だ。
展望台に到着。実際はもっと暗い。
土産物店などは当然閉店。
日中なら結構人がいる。
アイスが美味。
展望台からの街の風景。
写真左側の一番大きい建物、その手前のあたりに日本最北にして終点のJR稚内駅がある。
そこにもあとで行く。
さきほどの写真の左端に見えた堤防。
碇泊している白い船の左側をよく見るとトンネルのようなものが見える。
あそこは「北防波堤ドーム」。
稚内の観光名所の一つだが、あそこにも後ほど訪れる。
暗闇の展望台で唯一ライトアップされていた「氷雪の門」。
樺太島民慰霊碑として地元の樺太出身者たちにより建立されたもので、中央の像は1963(昭和38)年に彫刻家の本郷新により製作された。
中央の女性像について、「顔は戦争の苦しみ」を、「手は故郷も家族も失ったこと」を、「足はその悲しみや苦しみから立ち上がる」ことを示しているとされる。
樺太で亡くなったすべての日本人のための慰霊碑だとのこと。
天気のいい日には像の背後に樺太(サハリン)が望めるとのこと。
この日は残念ながらよくわからなかった。
実は筆者の祖父は樺太の出身で、幼少の頃にソ連軍の侵攻によって命からがら北海道へと引き揚げてきたという経歴の持ち主だった。
筆者にとっては「単に日本最北を目指す」というだけではなく、ある意味で自分のルーツに近づくということが今回の旅の目的の一つでもあった。
文字通り「着の身着のまま」逃げ延びた北海道で、人の親切心や食べ物のありがたさをよく実感していたようだ。
まったくの「ゼロ」から身を興して家を築いた祖父は、筆者が歴史上で最も尊敬する人物だ。
先見性に優れ、義侠心にあふれていたそんな祖父は数年前に亡くなったが、「ソ連が憎い」とか「樺太が恋しい」とか、そんな言葉は一切聞いたことがなかった。
ただひたすらに家族のため、人のために働き続け、80余年の生涯を全うしたのだった。
こちらは展望台から東を向いた写真。
本当の日本最北端、宗谷岬を一望する。
こちらは有名な「九人の乙女の像」。
とはいえ、自分を含めもう知る世代も少ないかもしれない。
1945(昭和20)年8月20日、ソ連軍が樺太の真岡(まおか)へ侵攻。
業務で真岡郵便局に残っていた女性電話交換手12名のうち9名が青酸カリなどを用いて自決、殉職した。
いわゆる「真岡郵便局事件」。
「北のひめゆり」とも呼ばれ、後に映画化もされた。
そんな彼女らを偲んで建立されたのがこの「九人の乙女の像」だ。
碑には端的に書いてあるが、実際の最期の言葉は少し違う。
以下に稚内市HP観光情報「『九人(くにん)の乙女』の物語」より一部を引用する。
同じ樺太にある泊居郵便局長は、当日の状況をこう話しています。
「午前6時30分頃、渡辺照さんが、『今、皆で自決します』と知らせてきたので『死んではいけない。絶対毒を飲んではいけない。生きるんだ。白いものはないか、手拭いでもいい、白い布を入口に出しておくんだ』と繰り返し説いたが及ばなかった。 ひときわ激しい銃砲声の中で、やっと『高石さんはもう死んでしまいました。交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら』という渡辺さんの声が聞き取れた。自分と居合わせた交換手達は声を上げて泣いた。誰かが、真岡と渡辺さんの名を呼んだが二度と応答はなかった」と語っています。
引用ココマデ。
職に殉じた敬うべき人々の最期の模様だが、こういった人々のことを学校で教えてもらえなかったのは何故だろうか。
1968(昭和43)年には昭和天皇と香淳皇后がこの地を訪れ、のちに御製と御歌と詠んでいる。
他には南極観測で活躍した樺太犬たちの慰霊碑などもある。
かつては麓から伸びる「稚内公園ロープウェイ」があったというが、訪問時よりちょうど10年前の2006年3月いっぱいで廃止されたという。
乗車時間二分程度。日本最北にして日本最短のロープウェイだったらしいが、現在は何の痕跡も残っていないようだ。
百年記念塔の少し下の斜面にはスキー場リフトもあったようだが、こちらも2006年に廃止されて何も残っていない。
百年記念塔と一緒の記事にしようかと思ったが、長くなりそうなので次回に回すことにする。
かつて日本であった近くて遠い大地に思いを馳せ、天候に恵まれた日にはその目で見ることが出来る稚内公園に、ぜひ皆さんも足を運んでみてはいかがだろうか。