宗谷丘陵 大地に刻まれた二万年の歴史
宗谷岬から車で五分ほど西へ戻る。
途中に道道889号線(上猿払清浜線)への分岐があり、そこから丘陵内へと進むことが出来る。
写真の看板は西側を向いているので、宗谷岬側から来ると気が付かないかもしれない。
道路標識などに注意を払おう。
まあどうしてこの宗谷丘陵を目指したのかといえば、率直に言うと「劇場版ガールズアンドパンツァー(以下「ガルパン」)」にハマってしまったからである。
※アニメとあなどっていたが、結局、通常版・4DX版合わせて10回は観に行ったかと。
劇中でこの宗谷丘陵(をモデルにした地形)が登場していたため気になり、「北海道」「自分のルーツ」「三毛別」など様々なキーワードを加味して総合的に今回の道北旅行に至ったのだ。
……とまあ、言い訳がましく述べてみたが、要は「とにかく行ってみたかったから」という話である。
相変わらずの鹿だらけ。
北海道の海岸部の朝方や夕方の涼しい時間には小奴らが出没しやすい。
なんでも、塩を舐めに来るとか。
こんな感じで小奇麗な舗装道路を進んでいく。
道の両側に広がるのは宗谷丘陵の凹凸である。
まだ早朝も早朝なので、車一台すらやって来ない。
それどころか霧まで出てきて聞こえるのは風の音くらいである。
いったいどこまで続くのだろう。この地形は。
少し高い所まで来た。
このあたりからは宗谷丘陵独特の不思議な地形が観察できる。
そもそもこの丘陵は二万年前の氷河期に形成された地形であり、地学用語では「周氷河地形」と呼ぶそうだ。
地中の水分が凍結と融解を繰り返した結果、このような低い丘と浅い谷を繰り返す独特の地形となる。
特にこの宗谷丘陵は樹木がかなり少ない。
これは明治期に山火事で樹木が消失したせいであり、低気温と強風によってあまり樹木が育たなかったため、このように地形がわかりやすい景色になったのだ。
霧が深まる。
家畜への伝染病を避けるために関係者以外立入禁止となっている宗谷岬牧場。
近くには自衛隊のレーダーサイトもあったようだが、霧のため確認できず。
なお、ガルパン劇場版に登場した高地は、このレーダーサイトが建っている丘と思われる。
姿を目視できなかったのは残念だが、この霧の異世界的な情緒も悪いものではない。
宗谷丘陵といえば忘れてはいけないのはこの「白い道」。
※本人は現場に来るまで忘れていたとは口が裂けても言えない。
稚内の名産といえばご存知「ホタテ」。
この周辺にもいくつもの水産加工場があり、そこで発生したいわゆる「ゴミ」であるホタテの貝殻を洗浄して撒いたものが、この「白い道」なのだ。
ここは歩いても、バイクでも、車でも通行が可能である。
ちなみに歩いても行ける、と書いたが、この白い道を含むハイキングコース(稚内フットパス「宗谷丘陵コース」)が設定されており、全長はロングコースでも11km(4時間)程度だそうだ。
体力と時間に余裕のある方は、景色を楽しみながら最北の地を踏破してみるのもいいだろう。
きっと太陽光と青空があればもっときれいに見えるはずだ。
頭上にはいつもの風力発電。
丘陵にはこれがいくつも建っているので、見渡すことが出来ればそれなりに壮観な景色なのだろう。
一応青看板は立っていたが、気持ちとしてはかなり適当に走り回ったと思う。
やがて標高は下がり、増えてきた木々の間を走り抜ける。
目指すは稚内市街方面だ。
進むほど霧は深く、緑は濃くなっていく。
こういう木々がやや不気味だ。
……などと言っているうちに麓へと戻ってきた。
ここまでくればもう安心だ。
牛は臭いが安心する。
さて、これにて宗谷丘陵の記事は終了とする。
このあとは時系列的には稚内市街に戻り、前夜に訪れた稚内公園や駅周辺などの再撮影を行った。
午前中には稚内市を出発して帰路についたが、その途中でとある場所に立ち寄った。
扱いとしてはおまけ的になってしまうが、今回の長きに渡った道北旅行記事の締めとして、そして来年ーー2018年を迎えるにあたってふさわしい記事になると確信している。
次回はその記事を上げ、本旅行の最終稿としたい。
では、次回もお楽しみに。
宗谷岬 日本最北端の地
稚内駅前で車中泊を敢行したものの、件の騒ぎと車の狭さもあって眠りは浅く。
うたた寝と起床を繰り返したため、翌朝はいっそ早起き(?)して、昇る太陽を宗谷岬から拝むことを計画。
当日の日の出は午前4時頃だったと記憶している。
JR稚内駅から宗谷岬までは30.6km。車で36分(グーグルナビ調べ)。
途中、道路を進軍する鹿の群れと遭遇したりしたが、30分もかかった印象はない。
あるいは眠気が感覚を麻痺させたのだろうか。
ちなみに結論から言うとお天道さまは拝めなかった。
なにせ曇ってたもので。
日昇後も数時間は太陽の姿を見なかったと思う。
またしてもカメラの設定ミスでピンぼけという無能っぷりを披露しつつ、サルベージに成功した写真をいくつか挙げてゆく。
なかなか傷んだ地図だが、右上の突端が宗谷岬。
厳密に言うと地学的な「岬」ではなく、ただ海岸線がカーブして張り出しているだけだという。
いきなりで申し訳ないが、ここが日本最北端の地、宗谷岬の碑だ。
彼は1808(文化5)年からの樺太探検で、樺太が半島ではなく島であることを発見。
現在は間宮海峡にその名を残している。
なお、この海峡は世界的には「タタール海峡」と呼ばれており、日本でもたまに「タタール海峡」や「ダッタン海峡」と表記されることがある。
鳥羽一郎の歌謡曲「韃靼海峡(だったんかいきょう、タタールの中国語表記)」とはこの海峡のことだ。
ちなみにタルタルステーキの「タルタル」も同じ語源らしい。
宗谷岬周辺の海は比較的遠くまで遠浅になっている。
なお当日は天気が悪くて見えなかった模様。
また衝撃的な事実だが、この岬から西北西の沖合に「弁天島」という本当の最北の地(島)があるという。
グーグルマップにも白い大きな岩礁として写っているが、民間人が気軽に上陸できるような場所ではないため、この宗谷岬が実質的な最北端となっているようだ。
宗谷岬側の半島の海岸線はほとんど、海の際まで宗谷丘陵が迫ってきている。
ノシャップ岬側の半島には市街地や農地といった平地が多いように見受けられる。
まったく岬周辺の雰囲気が伝わらず歯がゆい写真ばかりである。
宗谷岬の碑の向かい側も、道路を一本挟んですぐに丘陵が迫ってきている。
まあグーグルストリートビューでみれr
岬周辺は何もないわけではなく、ガソリンスタンドもある。
というか港があり、住宅も建っている。
最北のGSとはいえ、おもったほど高くはない印象。
さすが国岡商店だ。
※ここで給油すると「最北端給油証明書」なるものがもらえるらしいが、筆者はあいにく他所で給油したばかりであった。
丘陵の上から見た宗谷港の様子。
左下に写っているのがさっきのガソリンスタンドだ。
宗谷岬の碑があるところを北端に、半島の海岸沿いを南東に向かって街が伸びている。
パノラマ写真ではないが、碑のある辺りを背にするとこんな景色。
北から順に碑、駐車場、道路、丘陵という並びである。
左の写真の右側に写っている、白い四角い建物の前の坂から宗谷岬公園に上がることが出来る。
建物前の案内板。
公園には記念碑が多い。
坂を登っていくと、稜線にシシ◯様よろしく鹿が出迎えてくれる。
この旅ではキツネを見なかったが、普段の生活では鹿よりもキツネのほうが出会いやすい気がする。あとリス。タヌキ。
登って最初に目に入るのはこの廃墟。
というより、これを目当てに個々に来たフシがある。
以前は上に登れたようだが、この時は柵で封鎖。
これは大岬旧海軍望楼跡。
かつて帝国海軍が対ロシア用に建造した監視所である。
1875(明治8)年の樺太千島交換条約で宗谷海峡が国境となったため、1902(明治35)年に建造された。
1968(昭和43年)に稚内市の有形文化財に指定され、市内に残る唯一の明治期建造物だという。
今では鹿の群れが訪問者を監視している。
この複数の小窓から宗谷海峡を睨んでいたらしい。
なお現在は板のようなもので封鎖されている。
形状を見るに、かつてはこの後ろ側にも建物が続いていたのだろう。
ネットで往時の姿を探してみたが、見つからなかった。
「平和」や「海」に関する石碑がいくつも設置されている。
中でも一番目を引くのがこのツルのようなオブジェ。かなり大きい。
これは1983(昭和58)年9月1日に発生した大韓航空機撃墜事件の慰霊碑「祈りの塔」だ。
事件の二周忌である1985(昭和60)年の同日に建立され、折り鶴のように曲がった先端は撃墜現場(モネロン島)方向を指している。
台座の16枚の羽が犠牲者の国籍数を、張り石の御影石269枚は犠牲者の数を表している。
大岬中学校跡地の碑と祈りの塔。
海軍望楼の名前からも察するに、宗谷岬はかつて「大岬」とも呼ばれていたようだ。
見づらいが、大きく「世界平和」と象られた花壇。
花が咲くともっと見やすくなるのかもしれない。
奥には風車小屋もあり、丘陵の酪農風景の一端を担っている。
最後はまた下に降り、道路脇の宗谷岬神社でお参り。
えらくキレイな社だが、こういうのは気持ちの問題なので。
二礼二拍手一礼。ぜひ覚えよう。
次回の記事ではあの風車の奥に広がる宗谷丘陵へ足を踏み入れる。
※いったん車に戻って別ルートから進入。
道北旅行記事も、(予定では)残すところあと2回だ。
相変わらずのスローペースではあるが、ぜひ最後までお付き合い願いたい。
稚内駅と北防波堤ドーム 終りと始まりの地
数百台(?)と思われる車が駐車しており、多くの人が同じような方法で電車やフェリーの始発を待っていると考えられる。
夜中に地元の若者が来て、駐車場の中央あたりで乱痴気騒ぎを起こして帰っていった。
他に娯楽がないのかもしれないが、寝静まる人々の中での花火や大音響BGMは本当に迷惑である。
眠りにつく前に、周辺の見所として稚内駅と北防波堤ドームを見学。
例に漏れず、翌日の朝写真と混ぜ合わせてお送りする。
写真を見てわかるように、道の駅が併設されている。
時間も時間なので交通量はほとんどゼロ。
左の写真にも少し写っているが、この看板の右側に大きな駐車場がある。
右の写真は駅構内。
2階には映画館が併設されている。
そして何と言っても、稚内駅といえばJRの終点(あるいは始点?)。
一つ前の写真に写っていた看板の背後のコンクリートブロックが、この写真の中央に写っているコンクリートブロックだ。
ここがまさに端部。
ここから鹿児島の南端まで線路が続いてるのかと考えると、ちょっとした感動である。
ホームにも、北端を示す宣伝がある。
札幌までは特急自由席+乗車券で9,930円。
新千歳空港までで同10,390円。
グーグルマップでルート(稚内→新千歳)を調べると、電車では「8時間強で8,000円弱」となっていた。
時期やルートによって多少は変動するだろうか。
また、稚内にも小さいが空港があり(後に行く)、同じくグーグルマップの空路では「55分で44,000円~」となっていた。
なお、車でまっすぐだと5時間半(370km)程度らしい。
なお線路はあそこで途切れているが、駅構内にはレール(本物?)が入り口の方まで続いている。
こちらが入り口側。
建物の中から伸びてきている。
これが駅のすぐ前の終端部。
もしかしたらかつてはここまで伸びていて、現在は記念碑的な位置づけなのかもしれない。
……というか、もっと言うと、まだ線路の跡らしきものが続いている。
写真のレールの奥に線が伸びているのがわかるだろうか。
やはり伸びている。
片方は草地にぶつかって途切れているが、右側はまだ奥へと続いてる。
やっと道路にぶつかって終了した。
ある意味ではここが線路の本当の終端部かもしれない。
奥には件の駐車場の一部が見えている。
ちなみに駅前の黄色い終端部から先は、このようなブロック(もしくはタイル)でレールを象っているだけだ。
デザインととしてこんなところまで中途半端に伸ばすとは思えないので、やはりかつてはここまでレールが来ていたと考えるのが自然だろう。
駅周辺の地図。
赤丸が付いている「現在位置」から少し右側に行った、縦の道路とぶつかっているところが、さきほどの「タイルレール」の終端。
※この謎の延長線路については下の方で判明します。
駅のすぐ横には海鮮レストラン兼市場がある。
1階は市場。
新鮮な魚介や果物が手に入る(郵送も可)。
そしてこちらが北海道では有名な「熊出没注意」というブランド。
キーホルダーにステッカー、灰皿やマグカップなど実用品を取り揃えている。
大きめの土産物コーナーがあるところならだいたい取り扱っており、このご時世なら通信販売での入手も可能だ。
三毛別はこれとコラボして町おこしをしたりしないのだろうか。
……扱うにはブラックすぎるか?
ちなみにこのブランド、中国人観光客に大ウケとのこと。
日本語ではバラバラにすると「熊、出没、注意」だが、中国語では「熊出、没注意」と読めて「不慣れな運転手が運転しています。注意してください」という解釈ができるからだそうだ。
向こうには車に貼る若葉マークに相当するステッカーがないため、代わりに使われているそうだ。
同じ漢字文化圏だからこそ使えるインターナショナルなジョークグッズだ。
続いては北防波堤ドーム。
こちらの写真は駅前駐車場から撮影しており、駅との距離がかなり近いことがわかる。
実際、駅から歩いて5分程度だ。
↓こちらの記事にも登場した、
「土木学会選奨土木遺産」に選定され、北海道遺産にも認定されている。
これは何かと言うと、いわゆる防波堤だ。
1931年から5年の歳月をかけて構築され、70本のクラシカルな柱と長いドームで構成された全長427mの堂々たる大型防波堤である。
それで何か残っているのか?と問われれば、特に何もないというのが答えだ。
もともと稚内と樺太の大泊を結ぶ「稚泊連絡船(ちはくれんらくせん、1923~1945)」の乗客を波から守るための施設であり、言ってみれば単なる「壁」である。
しかしながらその造りは重厚かつエレガントで、コンクリート製でありながらデザインと機能の両立を図っていた昭和初期の建築様式が垣間見えている。
設計は北海道大学出身で、当時北海道庁の技師であった土谷実(1904~1997)。
ドームの設計年は昭和6(1931)年ということで、弱冠26歳(なんと現在の筆者と同年齢)でこの重厚な建築物を手掛けたということがわかる。
しかもたった二ヶ月で強度計算から図面までを終わらせたという。
う~ん、昔の人はすごい(などとは言っていられないが)。
ちなみにデザインのスケッチ(ラフ画程度?)は土谷の上司であった平尾俊雄(東京帝国大学卒、当時「網走築港事務所長兼稚内築港事務所長」)が描いたもので、それを具体化したのが土谷の仕事だったため、土谷自身、後年「あれは平尾・土谷の合作」と述懐しているという。
そしてこのドームについて、一つ前の記事を思い出してもらいたい。
↑この記念館で見た当時の写真。
この左下の写真、ドームの前に建物が建っているのが見えるだろうか。
実は当時、このドームの前には「稚内桟橋駅」という駅が存在し、稚内駅から線路を引いていたというのだ。
稚泊連絡船の乗客たちは稚内駅から列車で直接ここまで来て、ドームの下を歩いて船に乗り込んでいった。
つまり駅前で見た謎の延長線路の跡は、稚内駅と稚内桟橋駅を結ぶための線路だったのだ。
現在、防波堤の前はただの道路になっている。
ドーム横には階段があり、堤防の上から海を望むことが出来る。
階段から見た駅の方向。
見づらいが、写真中央の真っ白い四角が駅構内の明かりだ。
あの辺りから写真左手方向にあった稚内桟橋駅まで線路が来ていたのだろう。
せっかくなので、当時に思いを馳せながら一番奥まで行ってみることにした。
何事も「端部」が気になってしまうのは性分なのだ。
これはタモリさんの「縁(へり)好き」と似ているかもしれない。
桟橋の先の方には海上保安庁のいわみ型巡視船「れぶん」が碇泊していた。
2014年に竣工し、2016年に稚内(第一管区)に配属された新鋭の巡視船だ。
なおこの写真撮影時は7月ごろだが、2ヶ月後の9月26日に同じく第一管区の室蘭に転属になったという。
ドームの造りは最後までずっと同じだったが、最後はコンクリート壁で塞がれていた。
もう一度当時の写真を見てみよう。
ちょうどフェリーが停まっているのが巡視船「れぶん」と同じ位置だ。
こちらは桟橋の先の方から振り返る形で写真を撮っており、ドームの終端が当時は塞がれていなかった事がわかる。
なお、現在は写真中のフェリーとドームの間の岸壁の所に柵が設けられており、この位置から撮影を行うことは不可能に近い。
その柵がこちら。
左にドーム、右側に巡視船「れぶん」がいる。
柵から当時の撮影場所方向を望む。
岸壁自体は今も残っているので、柵を乗り越えて際を歩いていけば当時の撮影場所に行けなくはないが、かなり危険なのでやめておく。
巡視船の前にはかつて宗谷本線で活躍していたC55形蒸気機関車の転輪が飾られている。
以前は機関車自体が静態保存されていたそうだが、塩害腐食のために(そりゃそうだ)1996年に解体されてしまったという。
どうして日本の屋外展示はいつもこうなるのか。
さて、ノシャップ岬側の観光記事はこれで終了となる。
次回はいよいよ真の日本最北端、「宗谷岬」へと向かう。
※実際の時間的には、ノシャップ方面の朝写真より前(早朝)に行っている。
道北旅行記事も残すところ2,3記事程度となる。
相変わらずの牛歩更新となるが、最後まで是非お付き合い頂きたい。