大和ミュージアム 海軍の記憶
アレイからすこじま(下記記事参照)から呉港沿いに北上すると、かの有名な大和ミュージアムの案内が交通標識に登場する。
ちなみに広島空港からは大和ミュージアムのほうが近いのだが、開館時間の関係でアレイからすこじまを先に訪れた。
訪問の際は宿泊地との距離やアクセスルートを確認してもらいたいが、どちらのスポットも呉港沿いにあるので、車移動ならばそれほど苦にはならないだろう。
フェリーターミナルと大和ミュージアムは隣接しているが、それらと道路を挟んだ迎え側には大和ミュージアムの巨大な駐車場がある。
この駐車場は隣のショッピングセンターと接続しているので、あるいは駐車場を共有しているのかもしれない。
この駐車場1階に大和ミュージアムとは別の土産店があり、2階には映画「男たちの大和」で使用したセットの一部があるという噂だが、筆者は訪問時に知らかなったため逃してしまった。
※以下、日没後に撮影した写真もあるが、ご了承いただきたい。
この辺りには大和ミュージアム(写真左)、てつのくじら館(写真奥、潜水艦および背後の建物。次回掲載予定)、ショッピングセンター(潜水艦の船尾方向)、フェリーターミナル(大和ミュージアムの更に左隣)などが集まっており、見どころは豊富だ。
ショッピングセンターはフェリーターミナルと屋根のある空中廊下でつながっているため、雨の日でも道路を渡るのは容易だ(実際に助かった)。
ただ、大和ミュージアム、てつのくじら館それぞれの入り口までは一度屋外を通る必要があるので、雨の日は傘が必須だ。
こちらが大和ミュージアム。
閉館後のなので人が捌けた後だが、開館時は青いコーンの列に従ってカーブの右奥まで行列ができていた。
GWという時期も大いに影響している上、常時長い行列ができている様子でもなかったので、繁忙期でもそこまで身構える必要はないかもしれない。
ただし、入れても中まで空いているとは限らない。
参考までに、入り口そばの土産物店はこうなっていた。
屋外には戦艦陸奥から引き揚げられた主砲身や錨などが展示してあり、開館時間を問わずいつでも見学できる。
戦艦陸奥は、1943年6月8日に呉港の沖合にある柱島(当時海軍の泊地があり、現在は山口県岩国市に所属する島)付近で、碇泊中に謎の大爆発を起こして沈没した。
原因は未だに不明だが、火薬の自然発火説や水兵による自爆説などがある。
いずれにせよ、陸奥は1,121人の命とともに海中に没した。
死亡者の多くが溺死ではなく爆死であったり、砲塔が艦橋と同じ高さまで飛び上がったという目撃談もあることから、その爆発の衝撃が想像される。
これら展示物は1971年からのサルベージ作業で回収された物だ。
ここの展示物以外の回収物としては、戦前に作られて海中にあったため核実験の影響を受けなかった陸奥の船体の金属で、戦後日本の原子力産業を支えたいわゆる「陸奥鉄」がある。
展示物の前には案内板もあり、夜はライトアップもされていて昼とはまたひと味違った印象が味わえる。
なお、陸奥からの回収物は全国各地に展示されており、回収できなかった船体の一部が今も柱島沖に沈んでいる。
前置きが長くなったが、早速中へ入ってみよう。
受付を終えてメインの展示場と入ると、そこには大和ミュージアムの代名詞でもある巨大な戦艦大和の模型が鎮座している。
全長は26.3メートル。
1/10模型であり、実際の大和は全長が263メートルもあった。
※入場料は一般(大学生以上)500円だが、当日何度でも再入場可能だった。
右舷後方から見たところ。
見学者と比べて、その巨大さがお分かりいただけるだろうか。
大和の代名詞、46センチ三連装砲塔。右から第一砲塔、第二砲塔。
左に少しだけ見えているのは15.5センチ副砲だ。
「超長距離から一方的に砲撃すれば、ダメージを受けずに相手を一方的に沈められる」という思想は、「弾が敵に当たる」という前提がなければ当然成り立たない。
そして太平洋戦争中、戦艦大和が「確実に」敵艦艇を撃沈したという記録はない。
時代はすでに航空機による対艦攻撃が主流となっており、その時代を切り開いたのもまた大日本帝国海軍自身であった。
大和は1945年4月7日、天一号作戦(沖縄方面への水上特攻作戦)に使用され、敵の集中攻撃を受けながら奮戦した末に、大爆発を起こして2,740名の乗員とともに鹿児島県坊ノ岬沖の海中に没した。
大和を沈めたのは、帝国海軍が自身で開拓したはずの航空攻撃によるものだった。
カタパルト上に設置された零式水上観測機。
これで主砲弾の弾着を観測し、修正するはずであった。
その一方で米軍はレーダーを開発していた。
艤装は最終改装後の対空兵装強化状態を再現している。
ハリネズミのように天を衝く対空機銃の数々。
大和は現在、第一主砲塔と第二主砲塔の辺りから前後に断裂した状態で海底に沈んでいる。
前半分は右に傾き、後ろ半分は完全にひっくり返っている。
周囲からは主砲および主砲塔が発見されておらず、海中に埋まっているか、沈降中に脱落して別の場所にあると考えられている。
※軍艦の主砲塔は基本的に船体に刺さっているだけなので、船体がひっくり返ると主砲塔はスッポ抜けてしまう。
水深は345メートル。東京タワーが縦に一本沈むほどの深さに大和は眠っている。
現在、有志によって大和の引揚計画が練られている他、呉市が今年(2016年)の5月に潜水調査を行った。
撮影された映像は現在大和ミュージアムにて公開されている。
国家機密として誕生し、国民の多くがその存在を知らぬまま海中に消えた戦艦大和。
時を経てそんな大和の実像が解明されてゆく中、「海の墓標を静かに留め置け」という声もある。
余談ではあるが、戦艦陸奥や愛媛県の海中で発見された戦闘機「紫電改」の引き揚げドキュメントなどを観ると、そこには多くの遺族や関係者が参列しており、みな一様に「引き揚げてもらえてよかった」「よく帰ってきたね」といった感想を漏らしている。
(テレビ局の故意な編集でなければ)遺族としては、亡き家族が帰ってきたように嬉しい気持ちがあるのだろう。
俳優の石坂浩二氏が、ご自身の出演していた「開運なんでも鑑定団」に出品された際に自費で購入。
その後、より多くの人々に見てもらいたいという意志で大和ミュージアムに寄贈されたものだ。
折りたたまれてしまっているのが残念だが、横の案内板には展開した状態の軍艦旗と石坂氏の並んだ写真が掲示してある。
この関係で一時期、石坂氏は大和ミュージアムの名誉館長をされていたという。
続いて大和の隣の展示室へと歩みを進める。
こちらには旧海軍の魚雷や弾薬、そして特殊潜航艇「海龍」と零式艦上戦闘機が展示されている。
展示されている海龍は垂直尾翼が欠損している。
本来の尾翼は上下左右の十字型をしているそうだ。
その他にも船体には傷やヘコミが多い。
こちらは同室の零戦六二型。
1945年8月6日夕刻にエンジントラブルで琵琶湖に不時着した機体を、1978年1月に引き揚げたものだが、機体後部など失われていた部分は復元されている。
六二型は零戦の量産型としては最終形で、戦闘爆撃機(爆戦)として爆弾を装備できるようになっていた。
機体の下にあるのは25番(250kg)爆弾で、特攻機として使用された機体には500kg爆弾を装備したものもあったそうだ。
武装は翼内に20ミリ機銃、13.2ミリ機銃をそれぞれ二丁装備し、操縦席前方にも13.2ミリ機銃を一丁装備している。
珍しいものとしては、翼の下面に小型ロケット用のレールが装備されている。
計器盤は復元されたものだと記述があったが、その他、特に照準器なども30年以上水中にあったことを思うと、おそらくは複製品だと思われる。
大和展示室に劣らず、こちらも見どころ十分な展示室であった。
展示とは関係ないのだが、ご覧のように展示室を囲むように通路が設置してあり、大和の展示室も同様である。
通路はガラスの壁面で覆ってあるが、下の人間が頭上を見上げると見学者の姿が丸見えなので、特に女性の方はコーディネートに気をつけたほうが良いだろう。
ミュージアム側にもガラスの下半分を擦りガラスにするなど、対応を期待する。
展示室は他にも幾つかあり、大きなスクリーンのあるシアターも併設されている。
上映内容は時期や時間によって異なり、企画展などもあるので、ぜひ訪問時期とよく相談してもらいたい。
最後にいくつか写真を掲載して本記事の締めとする。
さあ、いかがだったろうか。
多くの観覧者にとって「大和ミュージアムに行ったこと」、「大和ミュージアムマークのお土産を買ったこと」が重要視されているような芋洗い状態ではあったが、ここは博物館であり本質的には展示物を見て得た記憶や見識が最大の習得物であるはずだ。
……などと言いつつ、かくいう筆者も「零戦タンブラー」と「聯合艦隊湯呑み」、「連合艦隊下敷き」を購入してしまった。
デザインは良かったのだが、タンブラーは飲み物に金属の味が染み出してくる上に4,000円弱もする商品だった。
しかもネットで(大和ミュージアムショップじゃなくても)販売しているため、わざわざ現地で購入する必要もなかった。
食器や文房具に戦艦大和を始めとした帝国海軍の名前をペタペタ貼り付けて高額で売るという手法には疑問を抱かざるをえないが、消費者には確固たる「買わない」という権利もあり、そこで欲に負けてしまう己の愚かさを呪うしか無いのだろう。
戦後70年以上を経て、今なお人々を魅了してやまない史上最大の戦艦大和。
彼女と共に海底に眠る多くの英霊たちに我々が出来ることは、彼らの記録や記憶を「知る」ということではないだろうか。