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週刊 日本を歩く

管理人が日本で見つけた物をフリージャンルで紹介します。 「週刊」と銘打ってはいますが、更新頻度はまちまちです。 日毎もあれば月毎になることもあります。 なにはともあれ、お付き合いください。

軍都広島 戦争と平和の街

広島県

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生まれも育ちも北海道の筆者にとって、この西日本の気候は5月といえども充分に厳しいものであった。

 

さるゴールデンウィークのある日、広島市を訪問した。

筆者が去った数日後から合衆国のオバマ大統領が訪問する・しない、という話題で沸き返った広島の街も、この時はまだそのような気配を見せてはいなかった。

ただ、広島最大の盛り上がりを見せる「ひろしまフラワーフェスティバル」の開催を控え、平和公園内は準備に勤しむスタッフや機材でごった返しており、マイクテストの音声なども響き渡っていた。

 

 

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写真下に写る道路より右上側の島が平和公園

公園内に3つ並ぶ建物が見えるだろうか。

右の正方形の2階建の建物が広島平和記念資料館、中央の白い細長い建物が広島平和記念資料館本館、そして一番左奥の正方形の建物が広島国際会議場だ。

 

 

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平和記念資料館内の展示。中央の赤い玉が原爆の炸裂点だ。

実は筆者は学生時代の修学旅行で広島市平和公園関連の施設を訪れたことがあり、

今回の訪問は二度目となった。

 

一度見れば長らく忘れることがないであろう展示物の数々。

10年近くの歳月を経て再訪したが、まるでひと月ぶりに訪れたかのような感覚であった。

 

 

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展示物はすでに多くの人々がアップしていると思うので、この程度にしておく。

……というより、人が多くてあまり撮影できなかったというのが正しい。

 

やはり世界的に有名な施設。

見学者は老若男女問わず、人種・性別・宗教も違うと思われる人々が興味深げに展示物に見入っていた。

 

 

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記念館2階から平和公園を望む。

中央のアーチが慰霊碑で、その下に犠牲者たちの名簿が収められた石碑が設置してある。

8月6日の記念日には道の両サイドの芝生に屋根が張られ、多くの関係者が集まる中、記念式典がとり行われる。

この日はフラワーフェスティバルを控え、あちらこちらに花が飾られていた。

 

 

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もっと接近した慰霊碑。

アーチ内の石碑には何かと論争になる「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という碑文が刻まれている。

公式見解としては主語を「人類」と捉えているようだが、主語を書かず曖昧な表現にしたためか、多くの人びとから「日本人が日本人に謝っている」と解釈され、論争を呼んでいる。

突き詰めていくと、原爆を落としたアメリカの謝罪にすべきだという主張があり、一方で、アメリカ人の多くが原爆投下を正当化しているのでそれはおかしいという主張がある。

こういった経緯から、慰霊碑は何度も塗料やハンマーによる破壊工作を受けており、中にはかけられたペンキが収められている犠牲者名簿にまで達してしまったということもあった。

 

 

丹下健三により資料館などともに設計された平和公園

本来はもっと広いエリアを含める予定だったのだが、結局現在の中島部分だけに落ち着いた。

資料館、慰霊碑、原爆ドームが一直線に並ぶように設計されており、慰霊碑のアーチからは原爆ドームが見えるようになっている。

 

 

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慰霊碑の脇を通ってさらに北上すると、道路を渡った先に「原爆の子の像」が姿を見せる。

ここには各地から送られた千羽鶴が保管されているが、2003年には約14万羽の折り鶴に放火される事件が起こっている。

こちらはムシャクシャした大学生による放火であり、政治・思想的な動機ではなかった。

 

 

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原爆ドーム以外にも平和公園内や周囲には原爆遺構が所々に残されており、修復されて現在も使用されている建物(レストハウスが特に有名)などがある。

平和公園を訪れる際はあらかじめ周辺の遺構を調べておくと良いだろう。

 

余談だがこの日、さきほどの「原爆の子の像」手前の道路上で人身事故が発生していた。

停止した車から降りてくる若い女性と、車の前に寝転んで怒鳴り散らす初老の男性。

筆者は衝突の瞬間を見ていないのだが、周囲の野次馬は一様に「当たり屋だよ……」といった具合であった。

女性は日本語がわからないのかさっぱり要領を得ず、携帯で誰かと話しながらしばらくして車で走り去ってしまった。

喚き散らしていた男性は「骨折している」と主張していた足で歩いて近くの公衆電話に向かい、自ら救急車を呼んで運ばれていった。

広島を離れた今も尚、この事件の詳細がとても気になっている……。

 

 

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公園の東側を流れる元安川

あの日も猛火から逃れるために多くの人々が飛び込み、そして息絶えたという。

 

奥に見えるのは相生橋

北から流れてきた太田川は、あの橋をくぐったあと平和公園のある島に当たって東西に別れている。

写真に写っているのが東側に分かれてきた前述の元安川で、公園の西側にはそのまま太田川の本流が流れている。

相生橋太田川の両岸と島の北端を繋ぐT字型の橋で、上空からでも目立っていたために原爆投下の目標にされた。

実際は風の影響などにより300m程ずれ、元安橋を渡った先の「島病院」の上空で炸裂した。

 

島病院は現在も「島外科内科」として続いており、現地には爆心地を示すモニュメントが設置されている。

当日、偶然出張診療で市外にいた初代院長の島薫(1897~1977)は救援要請を受けて当日夜に帰還。

さっそく被爆者の救護にあたったが、島病院は一瞬で壊滅しており、80人余の職員も患者も全員が即死していたそうだ。

 

 

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元安橋から対岸へ渡ると、いわゆる原爆ドームがある。

 

 

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正式名称は「広島県産業奨励館」。

設計はチェコ人のヤン・レッツェルで1915年4月5日に竣工、同年8月5日に開館した。

つまり開館からほぼ30年ちょうどで破壊されたことになる。

 

 

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爆心地に極めて近いところにあったにも関わらず、中央部の原形(特にドーム屋根)を残している。

これにはいくつもの偶然が重なっていた。

 

爆心地の島病院は写真右手方向に150mほど行った所にあり、原爆が炸裂したのはその上空600m付近だ。

つまり奨励館は写真で言うと、右よりのほぼ真上から爆風を受けたことになる。

ドームの鉄骨が爆風を受けた方向に少しだけ変形しているのが判るだろうか。

 

・爆風がほぼ真上からだったこと。

・窓が多い建物だったため、爆風が上手く外に逃げたこと。

という点から建物は全壊を免れ、特にドーム部分については屋根の素材が銅製であったため、爆風到達前の熱線で一瞬にして屋根が蒸発した。

これにより他の部分よりも爆風を逃がす割合が増え、中央部がよく残った理由だと言われている。

 

 

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正面は特に他の部分よりも状態が良いのが判る。

 

 

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右上から爆風を受けたため、正面左側も影になっていてダメージが比較的少なく見える。

 

 

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入り口からドームの真下を見る。

建物は倒壊を防ぐために随所に鉄骨などで補強がしてある。

崩れたブロックや煉瓦も下に散らばっており、凄惨な状況が思い起こされる。

 

 

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現在も新たな補強工事の準備中であり、足場が組まれていた。

こうして負の遺産を保存し記憶を語り継いでいこうという姿勢から、広島の平和に対する思いが見て取れる。

 

同じ被爆都市長崎にも戦後、浦上天主堂という原爆ドームに並ぶであろう遺構が存在していたが、あちらは再建の道を選んだ。

 

正解もハズレも無いのだが、過去と未来に対するそれぞれの街の考え方が現れているようで、なんとも対称的である。

 

 

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さて、平和公園から北に1kmほど行った所に広島城がある。

諸説あるが、別名「鯉城(りじょう)」と呼ばれ、広島東洋カープの由来にもなった城だ(太田川が鯉の産地でもあった)。

 

1589年、毛利輝元の主導によって築城開始。10年後の1599年に完成している。

豊臣秀吉の天下において、毛利氏は中国地方120万石を治める大大名であった。

 

秀吉は広島城築城にあたり、「軍師官兵衛」で有名な黒田如水を参加させている。

その理由として、広島は朝鮮出兵の拠点となった北九州の名護屋城と、秀吉の本拠地大坂の中間地点にあるため、中継基地としての役割を期待したという説があるが、逆に低湿地の平城を本拠地にさせて毛利氏を弱体化させる狙いがあったとも言われている。

 

いずれにせよ広島城は毛利氏の名城として完成したが、関ヶ原の戦い後に減封された毛利氏に代わって入城した福島正則が改築を行ったため、当時の姿は不明である。

 

ちなみに街の名前「広島」もこの毛利氏の時代に命名されている。

当時の広島市太田川による三角州地帯が形成されており、中洲が点在している状態であった。

その中で二番目に「広い島」を選んで築城したので、「広島」という地名になったという。

他に、毛利家の通字(代々名前に共通して入れる文字)の一つ「広」と、普請奉行福島元長の名前から「島」を取って「広島」としたという話もある。

 

 

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前述のとおり、現在の1km四方の巨城になったのは福島氏の時代であるが、その福島氏も1619年に洪水で壊れた石垣を幕府に無許可で修理しようとしたために改易されてしまった。

その後入城した浅野長晟から始まる浅野氏が、明治時代までこの広島を治めることになる。

 

 

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余談だが、幕府に注意された福島正則が慌てて壊したと伝わる石垣が残っている。

が、ここはそもそも洪水で破壊された石垣とは関係ない場所だという。

……どうした正則。

 

 

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1873年1月の広島鎮台発足以降、広島は急速に軍都としての色を強めていく。

1888年5月、広島鎮台は第5師団へと改編。

1894年7月、日清戦争勃発にともなって広島大本営設置。同年9月から翌年4月まで明治天皇行幸し、第7回帝国議会も開かれ、臨時の首都として機能する。

1897年4月、広島陸軍地方幼年学校(後の広島陸軍幼年学校)設置。

 

 

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当時、鎮台の司令部や大本営として利用された建物の跡地。

現在は台座と石碑だけが残っている。

台座の大きさからすると、中央官庁の近代建築に比べてそれほど大きな建物ではないことが判る。

 

 

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城内には広島護国神社があるが、その脇に慰霊碑と中国軍管区司令部跡の遺構がある。

 

 

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この壕自体は「防空作戦室」と呼ばれた半地下式の鉄筋コンクリート造りの防空壕だ。

周囲の司令部建築物は原爆の爆風でほとんど破壊されたが、この壕だけは無事であった。

そのため、広島市被爆の第一報はこの壕から発せられた。

現在は公益財団法人「広島市みどり生きもの協会」というところが管理しており、事前申し込みがあれば平和学習目的に限り見学できるとのことだ。

以下にリンクを貼っておく。


 

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いよいよ天守閣だ。

天守閣は原爆投下によって破壊されたが、長らく「爆風で吹き飛ばされたが、炎上しなかった」と考えられていた。

しかし最近の調査で、「下部二層が爆風の影響と上層部の重みで崩壊し、その後上部三層が崩壊した」という自重崩壊説がわかってきた。

戦後70年経ってやっとわかることもあるものだ。

 

 

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その後1951年、広島国体開催に合わせて仮の木造天守が作られたが、国体終了とともに解体されてしまった。

 

現在の天守は1958年、広島復興大博覧会に合わせて鉄筋コンクリートで再建されたものだ。

外観は宮大工によって仕上げられているため、それらしい雰囲気を醸し出している。

 

再建にあたり、次の3つの方針がとられた。

・初代(毛利氏時代)の天守を再現する。

・最上階を展望台にする。

・内部を博物館にする。

鉄筋コンクリート製にしたのは耐火目的であり、自重が増えたので石垣も強化されている。

最上階だけを木製にしたり、意匠の一部を築城当時をイメージしたものにするなど、こだわりを見せた一方で本来とは違う意匠を取り入れたりと、いかにも昭和らしい不徹底ぶりがうかがえる。

平成の現在にあっては、もっと徹底した復元をするはずだ。

 

 

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展示物は撮影禁止だったので、石落としなど。

天守閣内は中央の吹き抜けに大きな階段があり、1階登るごとに階段の周りの展示物をグルッと見て来て、また中央の階段から次の階へ登る、という行程の繰り返しだ。

見学にあたって、エレベーターがないなどの制約が多いので、貼ったリンクから見学前の注意点を確認されたし。

広島城 Hiroshima Castle Rijo

 

 

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最上階からの眺め。二枚とも北方を望む。

二枚目の右下に石垣が見えているが、その先の木の下あたりが件の福島正則の破壊した石垣だったと思う。

城址公園内を歩いて、角の資材置き場らしき辺りへ下って行くと見られるだろう。

 

 

最後に夜の広島市を。

 

 

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原爆投下から70年あまりの歳月を経て、軍都広島は平和と復興の象徴とも呼ばれる街へと変貌を遂げた。

今年2016年は、戦後初めて現職のアメリカ大統領が訪問するという出来事もあって何かと話題に上ったが、平和というものの正体は未だに曖昧である。

 

人類の歴史は戦争の歴史。

 

毎年必ずどこかで大なり小なり軍事衝突が起きているこの世界に、果たして「絶対的な平和」というものは存在しうるのだろうか。