道の駅「おびら鰊番屋」 北海道のニシン漁文化
※前回記事までは画像設定が間違っていたらしく、修正したので今回からは少し大きな写真で見れるはず。
ということで今回は写真多め&ちょっと長い。
地図は道央の少し北を拡大したもので、左の海は日本海だ。
秩父別町(赤い四角)を抜け、海沿いの留萌市へ。そこから日本海沿いを北上して小平町(赤い丸)へと達した。
留萌市へ至る山間部には「留萌国道」と「深川留萌自動車道(無料高速)」が並行して走っているが、今回は急ぎでもなかったので下道を利用した。
トラックの車列に挟まれながらの移動であったが、景色は北海道特有の森深い山間部道路だった。
留萌では黄金岬に立ち寄り。
路上駐車も溢れ返るほどの賑わいを見せる観光地だった。
ゴツゴツとした岩場で家族連れが磯遊びに勤しんでいる。
今回の旅では海沿いの記念碑によく立ち寄ったが、これがその一発目となった。
走行するのは石狩市から天塩町まで伸びる通称「オロロンライン」と呼ばれる風光明媚な海岸ルートだ。
ちなみに「オロロン」の由来は「オロロン鳥(ウミガラス)」だが、近年は別種による捕食やエサの減少で危機的状況にあるという。
目指したのは「おびら鰊番屋」だが、実は小平町の市街地からかなり北に行った場所にある。
小平町役場から距離にして北に約14km。車で15分ほど。
北海道では自治体の面積が大きいことが多く、道の駅の「町の境界付近に設置する」という特徴もあって、市街地から道の駅が遠いことがままあるのだ。
そんなわけで北上を続け、「おびら鰊番屋」に到着する。
この頃には陽も充分に高くなり、北海道の夏にふさわしい広い青空と大きな白い雲が美しかった。
おびら鰊番屋は大きく分けて3つの建物から構成されており、写真中央の道の駅部分と
右奥に見える茶色い花田家番屋直売所(食堂など)、および国指定重要文化財「旧花田家番屋(通称:ニシン御殿、写真のさらに右側にある)」からなっている。
道の駅の向かい側は道路を挟んですぐに海になっている。
幕末から明治にかけての探検家であり、生粋の蝦夷地マニアである。
生まれは現在の三重県だが、16歳頃から諸国を旅し、26歳のときに初めて蝦夷地(後の北海道)へと探検に出た。
江戸時代に間宮林蔵や伊能忠敬らの探検があったものの、当時の北海道はまだまだ大自然と猛獣の跋扈する未開の地であった。
武四郎は生涯に6回の蝦夷地探検を行い、そのうち後半の3回は箱館奉行所の役人としてであった。
その探検の中で武四郎はアイヌの文化、松前藩の圧政などを見聞し、明治維新後は開拓使の役人として採用されるほどの知識を蓄えていた。
正直、松浦武四郎は多趣味な上に北海道関係以外にも功績が多すぎて紹介しきれないが、特筆すべきは「北海道」を命名したという点だろう。
武四郎はアイヌへの経緯と五街道の文化を兼ね合わせ、「北加伊道(きたかいどう)」と名付け、これが元になって現在の「北海道(ほっかいどう)」が生まれたというわけだ(詳細割愛)。
※「カイ」とはアイヌ語で「この国に生まれた者」という意味だと伝わってきたが、近年になってそのような意味が無いことが判明している。
ただしアイヌはモンゴル人から「クイ」と呼ばれていたので、それが関係しているのではないかという新説が上がっている。
ちなみに武四郎が「北加伊道」を名付けた地が旅の後半に登場するので、お楽しみに。
武四郎もこの日本海を眺めたのだろうか。
道の駅は鰊番屋に似せたデザイン。
建物の前面と歩道までが屋根付き通路になっていて、雨の日でも車を寄せることが出来る。
なおドライバーは車を停めたあと濡れる模様。
正面玄関。
「ヤン衆」とはニシン漁業に従事した出稼ぎ労働者の俗称で、「雇い衆」の転訛ではないかと考えられている。
当時は蔑称として用いられており、「よそ者、流れ者」というニュアンスが強かったようだ。
もっとも、今となってはニシン漁業文化を象徴する文化的な響きが強いようであるが。
木の匂いを全面に押し出し、そこを大漁旗と吊り提灯で彩るホール。
入って左手側を進むと売店や、ニシン漁に関するちょっとした展示がある。
お土産とともに地元の野菜が売られているのがなんとも道の駅らしい。
2階には展示室がある。
小平の歴史や教育、農業などに関する展示だ。
続いて隣の花田家番屋直売所。
どうもWikipediaの写真を見ると別の建物が写っているので、道の駅共々、最近になって建て替えられたものだろう。
内部は食堂+土産店といった具合。
訪問時の時刻はすでに16時前だったが、昼食を摂っていなかったため腹ごしらえをすることに。
券売機で券を買い、調理場に提出して呼び出しを待つ。
値段はまちまちだが、1000円前後のメニューが多いように見受けられる。
気分的には刺身定食や海鮮丼だったが、せっかくニシン漁文化に触れに来たのであえて「ニシン丼(950円、味噌汁付き)」をチョイス。
呼ばれて受け取りに行き、ニシンの切り身と細切れの数の子が豪快に載せられたボリューミーな外観。
味は……まあまあ(笑)
五つ星レストランではないので当たり前の話で、決して悪くはなかった。
海鮮丼志望だったのも影響したかもしれない。
それよりも料理の衛生状態が少し引っかかった。
あまり言うと営業妨害にもなりかねないので控えておくが、多分耐えられない人は耐えられないようなことだと思われる。
どちらかと言えばスタッフの業務姿勢の結果の産物であるが……。
みなさんも実食の際はそのあたり、ある種の覚悟を持って頂きたい。
ちなみに浜辺である以上仕方がない「ハマベバエ」というコバエが飛んでいたが、そのことではないのであしからず(もっとも、その時点でアウトな人もいるだろうが)。
腹も満たし、いよいよニシン御殿こと旧花田家番屋へと足を踏み入れる。
こういったニシン御殿と呼ばれる家屋は道内の日本海側各地にあったようで、この旧花田家番屋はその中でも最大規模のものだという。
そもそもニシン御殿とは、ニシン漁で財を成した地元の網元が建て、自分の家族と漁師や職人など集団が一緒に住めるようにした居住施設だ。
ただし定義や記録など、判っていないこともまだまだ多いようだ。
最近ではマンガ大賞2016を受賞した「ゴールデンカムイ(野田サトル著)」で見聞きした方も多いだろう。
玄関を入ってお金を払い(券売機だったかも?)、受付のおじさんからパンフレットを受け取る。
横の靴箱でスリッパに履き替え、順路に従って物置のような廊下に入っていく。
ニシン漁に関わる様々な器具が展示されているが、展示に気を取られていると足元に梁のようなものが出てくるので注意だ。
廊下をぐるりと抜けると入り口の対角側に出る。
これが鰊番屋の一番広い部分で、ここに様々な漁師や職人たちが起居していたのだろう。
天井の梁の構成が見事で、気がつけば上ばかり向いていた。
下の囲炉裏には発掘された仏像が。
屈んで小銭を投じると見事に跳ね返ってきた。
一段高くなっているのは「寝台」。
この上にも多くの男達が寝転んでいたわけだ。
ちなみに最初に通ってきた廊下はこの寝台の下を通っている。
iPhoneのパノラマ機能で寝台の上から撮影。
実際は写真よりもっと広く感じる空間だった。
建物は中央の土間によって用途が左右に分かれている。
この写真だと、右側の方がさっきまでの広い空間で、この座敷を含め左側の方は
家主の居住空間というわけだ。
左は建物の外(海に面している)を覗いたところ。
この窓があるのが右の写真の部屋で、勘定係の部屋のようだ。
窓と部屋の位置関係は概ね写真の並び通りだったので、イメージできるように並べてみた。
ちなみに右の写真の、さらに右方向を見た写真が一つ上の座敷の写真である。
勘定部屋の展示物(認定証のみ最初の座敷部屋に掲示)。
最初の座敷写真の反対側から撮ったもの。
奥の人がいる明るい部屋が勘定部屋である。
続いて、更に奥へと進んでみる。
座敷より更に奥は、和洋折衷(この写真はまだ和風)の奥座敷となっている。
より主のプライベートに近づいた空間なのだろう。
多くの部屋は立入禁止なので妙な角度の写真が多い。
こちらはトイレだ。
便器が洋風デザインの瀬戸物で出来ている。
地味にこういう部分が気になってしまうのは何故なのだろうか……。
和式便器の方は二部屋あり、個室だがドアに色ガラスが入っている。
美しいが、人が来たら丸見えではないのか……?
ちなみに小便器に至っては廊下を曲がった突き当たりにある。
それくらい、このあたりがプライベートな空間ということなのだろう。
欄間。
階段の上は「商談の間」。
たとえ家族であっても口出し無用の空間だ。
中庭の様子。
写真ではわかりづらいが、歪みがある所謂「大正ガラス」だ。
明治から大正の時代にかけて製造され、技術的問題で歪みがついたのだが、今となってはそれが一種のレトロさとして親しまれている。
近代建築などを訪れる機会があったときには、注目してみると良いだろう。
その他の部屋(右隣の写真が各部屋の説明板)。
立入禁止が多いのが残念だ。
屋外にも雑多な感じで展示物があるが、一部は海岸の風雨に晒されてもうボロボロである。
いかがだっただろうか、おびら鰊番屋。
あくまでも道の駅であり、コレだけを目当てにここまで来る人はあまり居ないだろうが、道中の一服と腹ごしらえのついでにニシン漁文化の空気に触れてみるのも、また一興だろう。