羽幌・築別炭砿 炭鉱町の繁栄と今
明けて旅行の2日目。
寝ては起きてを繰り返し、朝6時に再び起きるも写真を2枚ほど撮影して更に一眠り。
結局出発は朝8時半ごろとなった。
前記事の地図を引用する。
この日は前日なし得なかった苫前資料館&三毛別現地アタックと決めていたが、資料館の開館は朝10時からなのでまだ若干の時間がある。
逆に現地(地図中黄色点)を先に訪れる手もあったのだが、朝っぱらから一人で山奥に行くのも危険と判断。
他の観光客も訪れるであろう時間を狙って訪問時間を調節するため、別の見どころを探す。
そこで、あらかじめふらりと訪れる予定であった築別炭砿が近くであったので、こちらを先に訪問することに。
上の地図中の赤線で囲んだ部分が当該地域。
三毛別と合わせ、この日は南北に移動を繰り返すことになった。
築別炭砿へは、羽幌町ホームページにある「羽幌炭鉱探訪MAP」を利用した。
ちなみに「羽幌炭鉱」なのか「築別炭砿」なのか、統一感はなかった。
町のマップでは「羽幌炭鉱」表記だが、写真のように、道路標識では一貫して「築別炭砿」である(「羽幌炭鉱」表記はなかったように記憶している)。
一応、別々の炭鉱の集合地域ではあるので、どちらにしてもこのあたり一帯を指していると思われる。
あるいは行政的には「羽幌炭鉱」、観光的には「築別炭砿」といった程度の違いかもしれないが、詳しいことは不明である。
羽幌町ホームページより引用。
町から一番遠い上羽幌地域でも約25km。車なら30分前後で行ける。
とはいえ山奥。
トイレなど皆無で、万が一に備えて飲食料、季節によっては虫除けスプレーや熊対策が必要となる。
人・車ともに不測の事態に備えて補給を整えてもらいたい。
筆者は虫除けを忘れてアブに邪魔されたが、熊よけの鈴は持参しておいた。
※どこまで効果があるかは不明だが。
今回は地図中の黄色ルートを時計周りに周ることにした。
海岸沿いを築別地域まで北上し、356号線に入って築別川を遡るルートだ。
地図上で最深部の炭鉱アパートのあたりまで行ったら、Uターンして上羽幌地区へ。
そして西に走って街へと戻る。
最初の見どころは、MAP上では「旧築別駅跡」のはずだが、結論から言えば見つけられなかった。
住宅地をフラフラと走って写真のような砂利道にまで入っていったのだが、遭難しかけたため諦めることに。
家も少なかったが、時間帯のせいもあり歩行者からの聞き取り調査もできなかった。
なお、地図にはないが356号線の途中に廃校が建っていた。
名前は「幌北小学校」。
1960(昭和35)年10月1日に開校し、2005(平成17)年3月31日に閉校したという。
築別小学校と上築別小学校が合併して開校、1990(平成2)年には曙小学校も併合したが、過疎化の波には勝てなかったようだ。
閉校の日に埋められたタイムカプセルが、再び母校を訪れる生徒の姿を待ちわびている。
築別炭砿への道のりは、終始このような山間部の田園風景であった。
この景色は三毛別に向かうときにも基本的には変わらない。
途中、道路は幾度となく築別川を渡る。
道と川が編み物のように何度も交差するのだ。
それだけ橋も多い。
あまりの多さに数えるのも止めた。
天気は相変わらず爽快だ。
道道356号線を表す道路標識。
内地(北海道での本州の呼称)の方は「道道」という表記に違和感を覚えるかもしれないが、「どうどう」と発音する。
アクセントとしては「妄想」とか「競争」と同じだ。
国の道路が「国道」なら(北海)道の道路は「道道」というわけだ。
そしてオロロンラインの主役であるオロロン鳥が描かれている。
実は道路と並行するようにかつての炭鉱線路が通っている。
と言っても大部分は緑に埋もれてしまっているため、唯一、川の上にかかる橋の部分が往時の姿を偲ばせている。
この橋は最初に見つけたものだが、道路にかかる方の橋から見るには少し遠かった。
だいたいの線路橋は(炭鉱に向かって)進行方向右手に見えるはずだ。
二番目に見つけた橋は先程よりも少し近く見えた。
写真二枚目にズーム写真を載せたが、実はこれら築別炭砿の線路が敷かれたのは大東亜戦争開戦直後だということで、よく見ると橋桁のサイズがバラバラであるのがわかる。
間に合わせの資材をかき集めて作ったのだということがよく分かる貴重な産業遺産だ。
さらに山奥へと進んでいく。
周囲は田園風景こそ広がるものの家屋などはほとんど見ることがない。
写真奥に見えるのもどうやら廃屋らしい。
すれ違う車も、ぽつり、ぽつり……。
この旅の第一目的が「三毛別」であるだけに、これまでのドライブでは感じたことのない緊張感が終始続いていた。
羆・アブの危険性と実害のワンツーパンチでなかなか思うように撮影が出来なかった。
これは三つ目の橋だったと記憶している。
双方の橋の距離が一番近かったようだ。
そしてこの橋が最も面白い。
橋桁も橋脚もすべて形も大きさもバラバラなのだ。
いかに間に合わせだったかがよくわかる。
そしてこれらの橋は炭鉱の閉山まで役目を果たし続けたのだ。
これは三つ目の橋の上で来た道を振り返ったところ。
トラクターがのんびりと走っているが、それだけでも心強かった。
実は三つ目の橋は横道から橋の下へと周ることが出来る。
虫・蜘蛛の巣、そして羆の危険性に恐怖しながらも、折角の機会だということで橋の下へ。
幸いにもいずれの危険にも出会うことはなかった。
橋の下は農道になっているようで、すぐ奥が田園地帯になっていた。
地面から橋桁までの高さはせいぜい2メートル前後だ。
奥の水田に動く影を見つけて一瞬立ち止まる。
……どうやら近所の農家の方のようだった。
上を覗くと、すでに枕木やレールと思しき線路の遺物は残っていないようであった。
お気づきだろうか。
なんと支柱までレールを流用したものなのだ。
さらに少し進むと、曙の集落が現れる。
見える範囲に民家が数件だが、視界が多少開けているため、少々安心する。
ここはかつての曙小学校、北辰中学校、そして太陽高等学校らしい。
理由も方法も不明だが、体育館の屋根にロータリー除雪機が載せられていた。
地図で見てもわかるが、上記の学校跡のすぐ横に築別炭砿へと至る道がある。
北東へ左折すると築別炭砿へ至り、直進して道なりに山奥を走るとグルっと周って羽幌の町へと戻ることが出来る。
そちらにも炭鉱遺産があるので、あとで寄ることになる。
またしばらく進むと信号のない交差点にぶつかる。
ここから先はもう築別炭砿エリアだ。
交差点を左に曲がると初山別方面へ抜けられるが、このときは9月いっぱいまで工事で通行止めであった。
実はこの交差点を右折すればすぐに太陽小学校があったのだが、この時は気付かずに直進してしまっていた。
小学校には帰りに寄ることになる。
横目に森の奥の煙突を見ながら北上する。
最初に現れたのはホッパー(貯炭場)だ。
ここに掘った石炭を貯めておき、下にトロッコなどが来ると上から落として積めるというわけだ。
鉄筋コンクリート造で重厚感がある施設だったが、往時はもっと巨大だったようだ。
手前には案内の看板が建てられている。
写真は「鈴木商店記念館」HPより。
白黒写真を見るに、現在残っているのは右下の建物の下部のみのようだ。
白黒写真と見比べると、どうやら横の小さい建物とは斜めの屋根でつながっていたらしい。
というより、左の小さい部分が貨車の入り口だったようだ。
そして背後の山の上には巨大な工場があったのである。
大きな白い看板はかすれて剥がれかかっているが、「羽幌鉱業」?と書いてあったようだ。
内部は薄暗く、周囲は音もなく、ただ不気味であった。
それでもかつてはこの辺り一帯に多くの人々が住み、働き、一つの街を作っていたのだ。
初春や晩秋であれば草木も少なく、建物の状態ももっと具体的にわかったのだろう。
内部に立ち入るのは、看板の呼びかけと当日の装備を踏まえてやめておいた。
何より、少しでも車を離れるのが恐ろしかったのだ。
熊に襲われてから後悔するよりはずっとマシである。
さらに北上して別の交差点にぶつかる。
交差点から右を見たところ。
橋があり、その先には炭鉱アパートの廃墟がある。
交差点の左手には病院の廃墟があるが、草木が生い茂ってわかりづらい。
正式には「羽幌炭鉱鉄道病院」。
一部2階建ての三角屋根だったようだが、今は見る影もない。
別角度からカメラを高く掲げ、茂みの上から撮影。
こういうときにバリアングル液晶が心強い。
屋根はほぼ完全に崩落し、ほとんど壁だけである。
1944(昭和19)年開業、1956(昭和31)年増改築というから、60年以上前の代物だ。
1階の壁はコンクリートのようにも見えるが、そのおかげで骨格は残ったのかもしれない。
二階部分に三角屋根の面影が見える。
念のため交差点を直進してみたが、先程のようにゲートが閉まっており、これ以上は進めなかった。
そもそも進んだところで道のない山奥へと向かうだけなのだが。
Uターンすると左手側に建造物が見える。
おそらく先程の炭鉱アパートであり、これからそちらへと向かう。
正面に見えている煙突の下へは結局行けなかった。
戻って交差点横の橋を渡ると、すぐに遺産群に出会う。
これは上の写真によれば消防団庁舎の跡。
もともと三階建てだったが、よくぞここまで崩壊したものだ。
ここは看板が多い。
かつての築別・羽幌炭砿の繁栄ぶりが説明されている。
すぐ横には炭鉱アパートの廃墟。
見づらいが、中央の細道を挟んで両サイドの木々の裏にアパートが向かい合うように建っている。
航空写真で見る限り、左のアパートの向こうに更に二棟のアパートが続いているようだ。
下は泥の水たまり。両サイドは濃い緑に覆われ、件の恐怖心を更に煽ってくる。
仕方なく車ごと、少しだけ入ってみることに。
このアパートはあまり長く使われなかったらしい。
今でも窓の縁の赤色が鮮やかに残っていた。
アパートの間の道から後ろを振り返った景色。
正面の茂みを分け入っていけば煙突まで行けたらしいが、とてもそんな気にはなれなかった。
左手にも道があったようだが、特に行くことはなかった。
右に伸びている道が橋、交差点、病院跡へ続く道だ。
このあたりは見終えたので太陽小学校へと戻る。
前の交差点まで戻り、太陽小学校へと到着。
ここは学校として使われた後、レクリエーション用の宿泊施設としても使われた。
ガラス類が割れている以外は、建物自体にそこまで大きな損傷は見られない。
この廃墟にも立ち入ったレポートがネット上には数多く上げられている。
羆の剥製に突然出くわし、皆例に漏れず寿命を縮めているそうだ。
ちなみにこの羆の剥製、数カ所のレポートを見るたびに配置が変わっているので、何者かが動かしているようだ。
場合によっては通用口のドアの前に置かれたりしていて、闖入者を楽しませている。
学校の右側には珍しい円形の体育館が残っている。
(窓に筆者と車が反射していたため写真を一部加工)
車ごと入口の前まで移動し、上下左右に危険物がないことを確認して覗かせてもらうことにした。
入り口は二つ並んでいたが、右側は通れそうにない。
内部は圧巻である。
規則正しく円形に組まれた鉄骨屋根は、ブルガリア共産党の廃墟にも通ずるものを感じる。
以上で築別炭砿エリアの見学は終了だ。
山奥を巡る上幌別坑一帯は木々が深くてあまりいい写真も取れなかったため、写真だけまとめて上げることにする。
これらがまとまって建っていたエリアだが、あとは基本的に山中の道路を車で走り続けるだけであった。
築別の炭鉱アパートから、このエリアを通ってはぼろ温泉サンセットプラザまではグーグルマップで約30km、車で1時間15分程度と算出された。
実際は車もほとんど通らない道なのでもう少し短くなるとは思うが、それでもある程度の距離を走ることになる。
人・車ともに充分な補給を整えて欲しい、と冒頭で述べたのはこれが理由だ。
最後に一枚。
通りがかった看板に見つけた「三毛別」の文字。
弥が上にも緊張感が高まる。
少し長くなったが、これで築別炭砿の記事を終える。
次回はいよいよ苫前資料館、そして羆事件の現地へと向かう……。