週刊 日本を歩く

管理人が日本で見つけた物をフリージャンルで紹介します。 「週刊」と銘打ってはいますが、更新頻度はまちまちです。 日毎もあれば月毎になることもあります。 なにはともあれ、お付き合いください。

七日町通り 大正浪漫で生きる町

さて、前回の記事で「次回は飯盛山へ」などと記したが、その前に訪れた会津若松城下の町並みを紹介したいと思う。

 

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こちらは「七日町通り」。

大正浪漫の雰囲気を残したおしゃれなストリートだ。

 

 

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こちらはその一隅にある「会津新撰組記念館」。

 

江戸の終わり。

京都から江戸、東北、そして蝦夷地まで闘い続けた新撰組にとって、この会津の地は特別な場所だった。

 

新撰組の立場は「会津藩御預」という、謂わば傭兵集団である。

会津藩主・松平容保は幕末における京都守護職にして、新撰組の管理役でもあった。

新撰組会津藩を通して幕府とも接近でき、容保に対する敬意も強かったのだ。

 

 

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明治22年に造られた店蔵を流用しての展示館ということで、内部はそれほど広くはない。

構成は、新撰組由来の品々の他にレトログッズや骨董品、果てはアニメグッズまでも取り揃えられている。

 

(ここに限ったことではないが)地元が舞台とあって、大河ドラマ「八重の桜」推し。

サインもいくつか掲げられており、それなりに有名なスポットなのかもしれない。

 

 

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一階は店舗なので無料で見て回れるが、二階は追加料金(大人300円、子供200円)が必要になる。

というより、二階が展示館というべきか。

 

写真が残っていないので、恐らく撮影禁止だったと思われる。

内容はもちろん会津戦争がメインで、ライフルや弾丸、装備品がガラスケースに収められていたのを覚えている。

新撰組関連の書籍や新聞記事などもあり、斎藤一の写真が発見された記事などがあった。

たかだか300円なので、近くを訪れた際はぜひご覧いただきたいものだ。

 

 

さて、七日町通り自体は前情報もなくふらりと立ち寄った場所なので、残りは町並みの写真だけで〆とする。

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大正浪漫の古き良き町並みが、「生きた街」として動き続けている「七日町通り」。

そこには観光向けにも、生活向けにも様々な店舗が並んでおり、明確な目的を持たずにゆるりとした時間を過ごせる落ち着いた雰囲気が漂っていた。

 

今年(2018年)は明治が始まってちょうど150年の節目、謂わば「明治ブームの年」ではあるが、あえてその次に日本が体験した和洋折衷でハイカラな大正という時代を感じてみるのも、また一興ではないだろうか。

 

 

次回こそ飯盛山、と思いきや、まだもう一件残っていたことに気がついた。

恐らく次回は「会津武家屋敷」の記事になると思われるが、どうか気長にお待ちいただきたい。

 

それではまた、次回の記事にて。

会津若松城(鶴ヶ城) 

ついに2018年がやってきてしまった。

激化した仕事の合間を見つつ、ちょこちょこと書いていた記事をここでまとめてしまいたい。

 

 時が経つのは早いもので、もう一年以上前の旅行記となってしまった。

記憶の端々を掘り起こしつつ、筆を進めていきたいと思う。

 

 

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真夏の仙台国際空港に降り立った。

 

東北といえば、忘れてはなならないのが2011年の東日本大震災

歴史上に、大地に、強い爪痕を残したあの記憶は五年を経た今(取材時、2016年)もこの地にハッキリと刻まれていた。

 

この仙台空港も直接被害を受けた。

滑走路が津波に飲み込まれた映像をご覧になった方も多いだろう。

記録としては3メートルほど浸水し、ターミナルビル一階は大量の瓦礫で壊滅したという。

 

幸いにして大きな旅客機はいなかったが、小型機やヘリコプター約70機が被災し、海上保安庁の一機を残して修理不可能となった。

 

 

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空港を出て一般道を走る。

 

このあたりも浸水したはずなので、この道路の痛み具合は津波によるものだと思われる。

特に分離帯のやけに背の高い草などを見ると、その名残を感じやすいかもしれない。

 

 

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相馬、石巻、名取など、あの日の印象を強く思い出させる地名が続く。

 

 

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今回はまず福島県へと向かう。

目的地は会津若松城こと鶴ヶ城

 

 

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会津若松市内。

 

時代が江戸から明治に移りゆくとき、徳川幕府を残そうとする「旧幕府軍」と、国際情勢に合わせた近代国家を作ろうとする「新政府軍」との間で、戊辰戦争(1868~1869)が勃発した。

この城下町でも激しい戦闘が行われ、多くの会津藩士たちが犠牲になった。

戊辰戦争はまさに旧時代と新時代の衝突であったが、会津藩は最後まで幕府に忠義を尽くし、結果として旧時代勢力の中核となってしまった。

その時代の差は兵器の差となり、会津藩は新政府軍の近代兵器による猛攻撃に晒されることになった。

 

 

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城内の駐車場まで車で入って行ける。

 

 

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行楽シーズンだったので駐車場は終日利用できるようになっていた。

今回は西出丸駐車場を利用した。

周囲には他にもいくつも駐車場が有るので、オフシーズンでなくとも駐車場所には困らないものと思う。

 

 

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駐車場から見た堀と石垣。

西出丸は名前の通り、城の西側に突き出した出丸(砦)であり、この堀を挟んだ向かい側の石垣は天守のある本丸の石垣なのだ。

 

 

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堀の水はあまりきれいには見えない。

別にこの城に始まったことではないが、ごくまれに綺麗な水のお城に出会うと少しテンションが上がる。

 

 

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案内板。

北が左向きになっているので、現在地の西出丸が地図の一番下に来ている。

西出丸から梅坂を渡り、本丸へと進める。

本丸以外の部分はテニスコートやプールに利用されているようだ。

 

ちなみに地元では「鶴ケ城(つるがじょう)」と呼ばれているが、同じ名前の城が別の地域にも有るため、一般には「会津若松城」と呼ばれている。

 

会津地方は戦国から幕末にかけ、いくつもの大名家によって統治されてきた。

蘆名(あしな)氏は1384年~1589年の約200年間を統治した。

豊臣秀吉が1590年に天下統一をしたことを考えると、戦国時代の大部分、この地は蘆名の領地であったことがわかる。

当時この城は「黒川城」と呼ばれていた。

 

やがて東北地方で伊達政宗率いる伊達氏が急速に勢力を伸ばすと、1589年には蘆名氏を戦で下してこの地を支配下に収めた。

だが前述の通り、秀吉の天下統一で伊達氏はこの地を取り上げられ、代わって蒲生氏郷(がもううじさと)が42万石(検地と加増で、のちに計92万石)として会津を与えられた。

氏郷は織田信長豊臣秀吉という天下人二人に愛された才気溢れる人格であり、黒川城を「若松城」と改名。城下町を整備し、現在の会津若松の基礎を築いたのだった。

 

が、氏郷は1595年に40歳の若さで病死してしまい、まだ若い息子・秀行(13歳)では家中をまとめきれず、1598年に蒲生家は宇都宮へ移封(12万石に減封)されてしまい、代わって越後から上杉謙信の後継者・景勝が入封する。

 

上杉家は他の領地と合わせて120万石を有したが、関が原の合戦で西軍に属したため戦後に処罰。

お家取り潰しは無かったものの、上杉家は米沢30万石に大幅減封(1601年)されてしまう。

 

逆に、東軍に属していた(妻が徳川家康の娘だったため)蒲生氏郷の息子・秀行がここでまさかの返り咲き(60万石)。

しかし1611年には会津地震(9月27日)が発生。

死者3700人を出す大惨事となり、若松城も石垣の崩落や天守の傾きまで発生した。

これにかねてよりの家中内乱が重なった心労か、翌年、秀行は父よりも若い30歳で急死してしまう。

 

この後、秀行の息子・忠郷が幕府との接近や金の産出でやや家中を盛り上げるが、何の因果か、またもや1627年に25歳での若さ急死してしまう。

忠郷には子供が居なかったため、蒲生家の会津支配はここで途絶えてしまう。

 

ちなみ弟・忠知が出羽上山藩(4万石)の藩主であったため、彼を当主として蒲生家自体は存続。

忠知は伊予松山藩に(蒲生本家として考えると会津60万石から伊予松山藩24万石へ)減封されたが、例に漏れず7年後に子がないまま30歳でこの世を去った。

これにより蒲生氏は本当に断絶してしまった。

※忠郷・忠知兄弟の早世は、現在では天然痘によるものと考えられている。

 

やがて1627年に蒲生氏に代わって入封したのが、伊予松山藩を起こして盛り立てていた加藤氏である。

(つまり蒲生氏と領地を交換した形である)

 

加藤という大名と聞くと、一般には虎退治で有名な加藤清正(かとうきよまさ)が思い浮かべられるだろうが、こちらは加藤嘉明(かとうよしあき)。

清正と同じく秀吉子飼いの「賤ヶ岳七本鎗」の一人であり、名城・松山城を築城した名君である。

ただしすでに65歳と高齢であったため、嘉明は4年後にこの世を去ってしまう。

 

代わった息子・明成の時代には財政の逼迫とお家騒動(会津騒動)によって家中が崩壊。

明成は幕府に領地を返上(1643年。加藤家は存続)し、加藤家による統治が終了する。

 

 そしてここから名君・保科正之に始まる会津松平家による統治が明治まで続くことになる。

 正之は家康の孫で、二代将軍秀忠の御落胤(隠し子)であった。

 幕府を重んじ、将軍家を第一とする会津藩の気風を強く根付かせたが、これが幕末の藩主・松平容保まで受け継がれ、結果として会津戦争の遠因ともなったようだ。

 

 

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梅坂を渡るとすぐに巨大な石垣が出迎えてくれる。

一旦右に折れてからまた左折して本丸へと立ち入るのは、敵をまっすぐ城内に入れないための工夫で、現存する多くの城でも見られる配置だ。

もしかするとかつてはこの石垣の上に櫓があり、侵入してくる敵をそこから撃ち下ろしていたのかもしれない。

 

 

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大きくて表面のキレイな石垣だ。

一つとして同じ形のない大小様々な岩石を組み合わせ、強固な城壁を形成している。

我が国の築城技術の高さを、その存在だけで証明しているようだ。

 

西洋ではできるだけ同じ規格の石やレンガを組み合わせて城塞を構築する。

それは構築の合理化と統一感という美しさを生む。

だが日本の石垣もそれに勝るとも劣らない強度と構造美を併せ持っているのだ。

 

 

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見上げれば天守

期待は膨らむ。

 

 

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入り口の石垣の上には「鐘撞堂(かねつきどう)」という鐘楼が建っていた。

「時守(ときもり)」という担当者が鐘の音で城内に時報を伝えていたが、戊辰戦争の際には新政府軍による銃砲撃の良い的になったようで、幾人もの時守が命を落としてしまった。

だが彼らは自らの役目を果たし続け、城が落ちるときまで時報を伝えたのだ。

その鐘の音は、城内外の仲間を奮い立たせるのに充分であった。

 

 

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こちらは珍しいV字型の「武者走り(むしゃばしり)」。

戦の最中に石垣の上に駆けつけるには十分だが、観光には少し危険なので立入禁止。

 

 

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城内のお稲荷さん。

なぜかは忘れたが参拝を失念してしまっていた。

痛恨のミスである。

 

 

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2018年は、1868(明治元)年の戊辰戦争勃発(会津戦争終結)から150周年の年となる。

会津若松市ではプロジェクトとして取り組んでいるので、興味有る方はこちら↓から。

戊辰150周年記念事業「ロゴマーク」及び「キャッチフレーズ」が決定しました。 | 会津若松市

 

 

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こちらはひときわ背の低い石垣。

「蒲生時代の表門」と書かれた「本丸埋門(ほんまるうずみもん)」。

名前の通り、地面に埋まったように低い石垣で、ここにあった門も比較的低い門であったことが想像される。

加藤時代の改修で裏門にされてしまったが、いずれにせよ本丸に通じる重要な門であった。

 

 

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早速だが天守へと足を踏み入れる。

天守は五重五階の鉄筋コンクリート製。

会津地震で傾いた天守を加藤明成が修復し、それをモデルに1965(昭和40)年に再建されたものだ。

 

まずは石垣部分にある一階へと足を踏み入れる。

本来の階段は石積みのようだが、危ないので横に別の階段が設けられている。

 

 

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鉄筋コンクリート造なのでバリバリのコンクリート柱で支えられている。

 

 

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各階には会津の歴史が記されている。

復興天守でよくある、中心の階段を囲むようにぐるりと展示が構成されている形だ。

 

内部はフラッシュ撮影禁止だったと記憶している。

たまに「撮影禁止」と「フラッシュ撮影禁止」を一緒くたにしている人がいるが、後者はフラッシュさえ焚かなければ撮影してもOKである。

 

 

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中心の階段はこのようなデザイン。

中央には転落防止のネット。

そして階段は交互通行になっており、真ん中をロープで仕切られている。

もしかすると繁忙期のみの対応かもしれない。

 

 

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こちらは幕末の会津藩主・松平容保

教科書や歴史本などで見たことのある方も多いだろう。

会津松平(保科)家当主としては9代目に当たる。

養子に喜徳(のぶのり、15代将軍・慶喜実弟)がおり、会津戦争前(1868(慶応4)年2月)に容保が隠居したため喜徳が会津松平家10代目当主となった。

ただし容保の隠居で会津藩自体は事実上廃藩となっているため、喜徳を会津藩主と呼ぶかは微妙なところだ。

結局同年の9月に会津戦争で敗北したため領地も没収されたが、会津松平家自体は1869(明治2)年11月に容保の長男・容大による家名存続が許され、陸奥斗南藩(現・青森県むつ市)に移封となった。

その後の会津松平家からは華族や軍人を輩出しており、決して没落していったわけではなかったようだ。

 

 

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会津戦争で忘れてはならないのは、彼ら「白虎隊」である。

名前だけなら聞いたことのある人も多いだろう。

会津戦争に際して編成された16歳前後の部隊で、戦局の悪化により郊外の飯盛山まで撤退。

そこから見た煙に包まれる城下の光景を見て絶望、20名が自刃(うち1名はその後生存)した……という悲劇的な実話である。

彼らは火災あるいは湯気を落城の光景と誤解した、とよく言われるが、どうやら実際には、進退窮まった上で武士らしく散るという覚悟で腹を切ったそうだ(落城したとは思っていなかった)。

 

この飯盛山へは後に向かう。

 

 

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こちらは上階。

壁には大山捨松山本覚馬など、NHK大河ドラマ「八重の桜」でおなじみの人物が紹介されている。

 

 

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こちらは自刃した白虎隊の中で唯一生存した飯沼貞吉(後に飯沼貞雄と改名)。

彼だけが自刃の際に喉を突いたため一命を取り留めることが出来たという。

彼が生き残ったことで白虎隊の悲劇が後世に正確に伝えられることになったが、本人は後ろめたさからあまり語りたがらなかったようだ。

 

 

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城から見た飯盛山方向。

中央奥の高い山が磐梯山で、その手前で磐梯山の半分ほどの高さに見える山が飯盛山

実際は磐梯山が1816m、飯盛山が314mなので、六分の一ほどのサイズ比である。

 

 

 

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最上階。

とにかくごった返している。

 

 

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先程の武者走りと神社が見える。

 

 

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最上階からの眺め。

緑豊かな会津の街が見渡せる。

 

 

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一通り階段を下り、別の櫓へと移動する。

元の石階段を残しつつ(左写真)、観光用の階段も備えられていたり(右写真)。

階段を降りた先は土産物店。

 

 

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土産物店の奥からは、復元された南走長屋と干飯櫓にアクセスできる。

 

 

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こちらは大河ドラマ「八重の桜」で使用された衣装。

 

 

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復元された櫓は発掘状態からの再現なので、柱の位置以外は「それらしい再現」だろうか。

 

 

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こちらの櫓では火縄銃を持って撮影ができる。

なおディティールはお察し。

 

 

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城防御システムの定番「石落とし」と「狭間(さま)」。

 

 

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櫓を出ると石垣の上から城内と城外を見下ろすことが出来る。

 

 

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石垣は途中から降りることが出来るが、そのまま上を歩いていくことも出来る。

 

 

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奥に伸びる道が石垣の頂部。

 

右の写真は石垣の上から堀の方を見下ろしたところ。

一段下がった平地が有る。武者走りだろうか。

 

 

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道の曲がり角には月見櫓の跡がある。

道は横を抜けてまだ続いている。

 

 

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月見櫓から城内を振り返れば、ちょうど対角線上に天守が見える。

 

 

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木々の緑に天守の白さが映える。

 

 

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月見櫓の前からも城内に降りられるが、こちらの階段は元の石階段のままで、写真で見るよりも急峻な感覚である。

 

 

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近くには「荒城の月」碑がある。

 

荒城の月、といえば作曲をした滝廉太郎豊後竹田大分県)のイメージが強いが、こちらの碑は作詞をした土井晩翠にちなんだもの。

 

曲のイメージ元になった各城址(青葉(仙台)城、会津若松城、九戸城、岡城、富山城)に碑が設置されているそうだ。

 

 

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先程の急峻な階段を降り、中庭を横切って天守の元へと向かう。

 

 

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会津若松城で一番撮りたかった、というか見たかった画角。

書籍やパンフレットでは必ずと行っていいほど採用されるアングルである。

 

 

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天守と中庭。

 

 

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萱野権兵衛長修を偲んだ碑。

萱野は会津戦争時の家老の一人で、戦後に腹を切った人物だ。

上役三人が戦死・行方不明で処罰できなかったため、そして主君・容保の存命のため、責任を一身に背負う形で腹を切ったのである。

 

 

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訪れた時期もあり、緑と城のコントラストでとても美しい城であった。

 

 

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昼食は城内の「鶴ヶ城喫茶」でラーメンを。

 

腹ごしらえを終え、次は白虎隊の悲劇の地・飯盛山へと向かう。

では、次回の記事で。

 

北海道命名の地 すべてはここから始まった

もたついてしまったが、やっと一年前の旅行記事を終えることが出来る。

このあとも溜まりに溜まっている旅行記事を思い浮かべると先が思いやられるが、終わりは終わりだ。

自分と故郷のルーツを巡る道北旅行の締めに相応しい場所を、本旅行記で最後の記事とする。

 

 

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午前中に稚内を出発し、往路とは趣向を変えて内陸を南下して帰ることに。

豊富町幌延町を抜け、天塩川に沿ってのどかな北海道の田園風景を駆け抜けていく。

雲は多いが、天気もよく、心地よい真夏の大地だ。

 

 

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幌延町の次に中川町に到着。

道の駅「なかがわ」で休憩し、付近を散歩。

 

 

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道路沿いに案内板を発見。

左下の青い部分が日本海で、左上が北の方向だ。

日本海から伸びる天塩川が青い蛇行した線で描かれており、それに沿うかたちでこの付近の名所旧跡が紹介されている。

 

色々と寄ってみたいところもあるが、この日は三連休の最終日であり、2連泊の車中泊が思いのほか体にダメージを残していたため、主目的の場所のみを訪れて帰ることを決断。

 

 

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こちらは道の駅の中の写真。

 

こちらの中川町では「感染列島」という映画のロケが行われたらしいが、映画を見ていないのでサラッと流す。

 

 

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さあ、いきなりだが主目的の地に到着。

その名も「北海道命名の地」。

※中川町を抜けて音威子府(おといねっぷ)村に入っている。

 

この場所、アクセスは結構悪い。

写真の道路の奥に写るカーブ(中川町方面)からやってきたのだが、カーブの抜けに逆方向に看板が設置されているため、ナビがなければ十中八九見落としていただろう。

 

南(札幌方面)からやってきた車向けに看板が立てられているために、このような自体になってしまったのだろうが、ぜひとも北向きにも案内を出してほしいものだ。

 

この看板で折り返す形で右奥の林の中へ車を進めていく。

 

 

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北海道にとっては結構重要な土地のような気がするが、舗装も派手な案内もなく、「多分ここ」という感覚で進んでいく。

 

 

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気分はもう三毛別。

実際は道路から林道に入って、比較的すぐに駐車場に到達する。

あまり身構えなくてもいいだろうが、最低限の羆対策は欲しいかもしれない。

 

 

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ついた。ここが駐車場(というかただの広場)。

 

 

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駐車場に車を停めると、前方に木々のトンネルが見え、その先に再び広場が見えている。

横には「車両進入禁止」の看板があるが、どう見ても少なくない車の進入痕がある。

 

 

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旅の前半でいいだけ恐ろしさを学んできたので、筆者もかなり迷ったが、渋々歩いていくことに決めた。

 

 

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ついに道北旅行最後の地に到着した。

ここが北海道の自然と文化の源流・天塩川に面する北海道命名之地。

 

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丸太で作られた記念碑と案内板が2つあるだけの簡素な広場だ。

記念碑の揮毫は現北海道知事の高橋はるみ氏。

意外なところで行政感を味わった。

 

 

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そもそも「北海道」の名付け親は、北海道マスターにして生粋の旅行人・松浦武四郎だ。

生涯で6回も蝦夷地(まだ開拓される前の北海道)を探検し、択捉島樺太にまで赴いている。

彼の尊敬すべきところは、凄まじい好奇心で過酷な旅路に赴いただけでなく、そこで出会ったアイヌ蝦夷地の原住民)たちと彼らの文化に対して、深い畏敬の念を抱いていたというところだろう。

 

明治の時代になり、蝦夷地に新しい名前をつけようという話が起こる。

1869(明治2)年に開拓判官となっていた武四郎は、蝦夷地で出会ったアイヌの長老・アエトモから聞いた話を思い出していた。

 

アイヌ語では、『この地に生まれた者』のことを『カイ』と呼ぶ」

 

そこで武四郎は「北のカイの土地」という意味を込め、「北加伊道(ほくかいどう)」という名を提案した。

※ちなみに武四郎は全部で6つの案を提出しており、他に「海北道」「海東道」「日高見(ひたかみ)道」「東北道」「千島道」というものがある。

 

結局、「北加伊道(ほくかいどう)」が選ばれ、かつての東海道などにならって「北海道」と正式に命名されることになったのが、この北海道という名称の由来である。

 

 

……もうすでにお気づきの方、あるいはご存じの方も居るだろう。

そう、来年2018(平成30)年は、北海道命名から150年の節目の年となるのだ。

筆者はつい最近気がついた。

 

1869年が命名1年目なので、そこから149年足して、2018年でちょうど150年になる。

この道北旅行のラストをこの地の記事で締められたことは意義深いことと思う。

 

 

 

 

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記念碑の前はすぐに天塩川の河原になっており、対岸には宗谷本線が走っている。

 

しみじみと感慨深いものがあるかと思いきや、筆者は常に羆を警戒しており、それどころではなかった。

 

去り際、突然林の向こうから物音が!

 

……と思いきや、観光目的の老夫婦の車がやってきただけだった。

ご婦人に軽く会釈をして、早々と帰路につく。

最後まで羆の恐怖と一人相撲を取り続けた旅であった。

 

 

 

さて、長らくかかってしまったが、これで本当に道北旅行記を終えたいと思う。

ここまでお付き合い頂いた方々には本当に感謝と謝罪の念でいっぱいである。

 

次回からは、(名前が似ているが)東北旅行(宮城・福島)の記事を上げていきたいと思う。

こちらもぜひお付き合い頂きたい。

 

それではまた、次回の記事で。