週刊 日本を歩く

管理人が日本で見つけた物をフリージャンルで紹介します。 「週刊」と銘打ってはいますが、更新頻度はまちまちです。 日毎もあれば月毎になることもあります。 なにはともあれ、お付き合いください。

羽幌・築別炭砿 炭鉱町の繁栄と今

明けて旅行の2日目。

寝ては起きてを繰り返し、朝6時に再び起きるも写真を2枚ほど撮影して更に一眠り。

結局出発は朝8時半ごろとなった。

 

 

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前記事の地図を引用する。

この日は前日なし得なかった苫前資料館&三毛別現地アタックと決めていたが、資料館の開館は朝10時からなのでまだ若干の時間がある。

逆に現地(地図中黄色点)を先に訪れる手もあったのだが、朝っぱらから一人で山奥に行くのも危険と判断。

他の観光客も訪れるであろう時間を狙って訪問時間を調節するため、別の見どころを探す。

そこで、あらかじめふらりと訪れる予定であった築別炭砿が近くであったので、こちらを先に訪問することに。

 

上の地図中の赤線で囲んだ部分が当該地域。

三毛別と合わせ、この日は南北に移動を繰り返すことになった。

 

 

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築別炭砿へは、羽幌町ホームページにある「羽幌炭鉱探訪MAP」を利用した。

ちなみに「羽幌炭鉱」なのか「築別炭砿」なのか、統一感はなかった。

町のマップでは「羽幌炭鉱」表記だが、写真のように、道路標識では一貫して「築別炭砿」である(「羽幌炭鉱」表記はなかったように記憶している)。

一応、別々の炭鉱の集合地域ではあるので、どちらにしてもこのあたり一帯を指していると思われる。

あるいは行政的には「羽幌炭鉱」、観光的には「築別炭砿」といった程度の違いかもしれないが、詳しいことは不明である。

観光パンフレット・マップ|観光情報|羽幌町

 

 

 

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羽幌町ホームページより引用。

町から一番遠い上羽幌地域でも約25km。車なら30分前後で行ける。

とはいえ山奥。

トイレなど皆無で、万が一に備えて飲食料、季節によっては虫除けスプレーや熊対策が必要となる。

人・車ともに不測の事態に備えて補給を整えてもらいたい。

筆者は虫除けを忘れてアブに邪魔されたが、熊よけの鈴は持参しておいた。

※どこまで効果があるかは不明だが。

 

今回は地図中の黄色ルートを時計周りに周ることにした。

海岸沿いを築別地域まで北上し、356号線に入って築別川を遡るルートだ。

地図上で最深部の炭鉱アパートのあたりまで行ったら、Uターンして上羽幌地区へ。

そして西に走って街へと戻る。

 

 

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最初の見どころは、MAP上では「旧築別駅跡」のはずだが、結論から言えば見つけられなかった。

住宅地をフラフラと走って写真のような砂利道にまで入っていったのだが、遭難しかけたため諦めることに。

家も少なかったが、時間帯のせいもあり歩行者からの聞き取り調査もできなかった。

 

 

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なお、地図にはないが356号線の途中に廃校が建っていた。

名前は「幌北小学校」。

1960(昭和35)年10月1日に開校し、2005(平成17)年3月31日に閉校したという。

築別小学校と上築別小学校が合併して開校、1990(平成2)年には曙小学校も併合したが、過疎化の波には勝てなかったようだ。

 

 

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閉校の日に埋められたタイムカプセルが、再び母校を訪れる生徒の姿を待ちわびている。

 

 

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築別炭砿への道のりは、終始このような山間部の田園風景であった。

この景色は三毛別に向かうときにも基本的には変わらない。

 

 

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途中、道路は幾度となく築別川を渡る。

道と川が編み物のように何度も交差するのだ。

それだけ橋も多い。

 

 

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あまりの多さに数えるのも止めた。

天気は相変わらず爽快だ。

 

 

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道道356号線を表す道路標識。

内地(北海道での本州の呼称)の方は「道道」という表記に違和感を覚えるかもしれないが、「どうどう」と発音する。

アクセントとしては「妄想」とか「競争」と同じだ。

国の道路が「国道」なら(北海)道の道路は「道道」というわけだ。

 

そしてオロロンラインの主役であるオロロン鳥が描かれている。

 

 

f:id:nobesuke:20161104190708j:plain実は道路と並行するようにかつての炭鉱線路が通っている。

と言っても大部分は緑に埋もれてしまっているため、唯一、川の上にかかる橋の部分が往時の姿を偲ばせている。

 

 

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この橋は最初に見つけたものだが、道路にかかる方の橋から見るには少し遠かった。

だいたいの線路橋は(炭鉱に向かって)進行方向右手に見えるはずだ。

 

 

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二番目に見つけた橋は先程よりも少し近く見えた。

写真二枚目にズーム写真を載せたが、実はこれら築別炭砿の線路が敷かれたのは大東亜戦争開戦直後だということで、よく見ると橋桁のサイズがバラバラであるのがわかる。

間に合わせの資材をかき集めて作ったのだということがよく分かる貴重な産業遺産だ。

 

 

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さらに山奥へと進んでいく。

周囲は田園風景こそ広がるものの家屋などはほとんど見ることがない。

写真奥に見えるのもどうやら廃屋らしい。

すれ違う車も、ぽつり、ぽつり……。

この旅の第一目的が「三毛別」であるだけに、これまでのドライブでは感じたことのない緊張感が終始続いていた。

 

羆・アブの危険性と実害のワンツーパンチでなかなか思うように撮影が出来なかった。

 

 

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これは三つ目の橋だったと記憶している。

双方の橋の距離が一番近かったようだ。

 

 

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そしてこの橋が最も面白い。

橋桁も橋脚もすべて形も大きさもバラバラなのだ。

いかに間に合わせだったかがよくわかる。

そしてこれらの橋は炭鉱の閉山まで役目を果たし続けたのだ。

 

 

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これは三つ目の橋の上で来た道を振り返ったところ。

トラクターがのんびりと走っているが、それだけでも心強かった。

 

 

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実は三つ目の橋は横道から橋の下へと周ることが出来る。

虫・蜘蛛の巣、そして羆の危険性に恐怖しながらも、折角の機会だということで橋の下へ。

 

 

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幸いにもいずれの危険にも出会うことはなかった。

橋の下は農道になっているようで、すぐ奥が田園地帯になっていた。

地面から橋桁までの高さはせいぜい2メートル前後だ。

 

 

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奥の水田に動く影を見つけて一瞬立ち止まる。

……どうやら近所の農家の方のようだった。

 

 

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上を覗くと、すでに枕木やレールと思しき線路の遺物は残っていないようであった。

 

 

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お気づきだろうか。

なんと支柱までレールを流用したものなのだ。

 

 

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さらに少し進むと、曙の集落が現れる。

見える範囲に民家が数件だが、視界が多少開けているため、少々安心する。

 

 

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ここはかつての曙小学校、北辰中学校、そして太陽高等学校らしい。

理由も方法も不明だが、体育館の屋根にロータリー除雪機が載せられていた。

 

 

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地図で見てもわかるが、上記の学校跡のすぐ横に築別炭砿へと至る道がある。

北東へ左折すると築別炭砿へ至り、直進して道なりに山奥を走るとグルっと周って羽幌の町へと戻ることが出来る。

そちらにも炭鉱遺産があるので、あとで寄ることになる。

 

 

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またしばらく進むと信号のない交差点にぶつかる。

ここから先はもう築別炭砿エリアだ。

 

 

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交差点を左に曲がると初山別方面へ抜けられるが、このときは9月いっぱいまで工事で通行止めであった。

 

実はこの交差点を右折すればすぐに太陽小学校があったのだが、この時は気付かずに直進してしまっていた。

小学校には帰りに寄ることになる。

 

 

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横目に森の奥の煙突を見ながら北上する。

 

 

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最初に現れたのはホッパー(貯炭場)だ。

ここに掘った石炭を貯めておき、下にトロッコなどが来ると上から落として積めるというわけだ。

 

 

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鉄筋コンクリート造で重厚感がある施設だったが、往時はもっと巨大だったようだ。

 

 

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手前には案内の看板が建てられている。

 

 

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写真は「鈴木商店記念館」HPより。

白黒写真を見るに、現在残っているのは右下の建物の下部のみのようだ。

 

 

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白黒写真と見比べると、どうやら横の小さい建物とは斜めの屋根でつながっていたらしい。

というより、左の小さい部分が貨車の入り口だったようだ。

そして背後の山の上には巨大な工場があったのである。

 

 

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大きな白い看板はかすれて剥がれかかっているが、「羽幌鉱業」?と書いてあったようだ。

 

 

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内部は薄暗く、周囲は音もなく、ただ不気味であった。

それでもかつてはこの辺り一帯に多くの人々が住み、働き、一つの街を作っていたのだ。

 

初春や晩秋であれば草木も少なく、建物の状態ももっと具体的にわかったのだろう。

内部に立ち入るのは、看板の呼びかけと当日の装備を踏まえてやめておいた。

何より、少しでも車を離れるのが恐ろしかったのだ。

熊に襲われてから後悔するよりはずっとマシである。

 

 

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さらに北上して別の交差点にぶつかる。

 

 

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交差点から右を見たところ。

橋があり、その先には炭鉱アパートの廃墟がある。

 

 

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交差点の左手には病院の廃墟があるが、草木が生い茂ってわかりづらい。

 

 

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正式には「羽幌炭鉱鉄道病院」。

一部2階建ての三角屋根だったようだが、今は見る影もない。

 

 

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別角度からカメラを高く掲げ、茂みの上から撮影。

こういうときにバリアングル液晶が心強い。

 

屋根はほぼ完全に崩落し、ほとんど壁だけである。

1944(昭和19)年開業、1956(昭和31)年増改築というから、60年以上前の代物だ。

1階の壁はコンクリートのようにも見えるが、そのおかげで骨格は残ったのかもしれない。

二階部分に三角屋根の面影が見える。

 

 

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念のため交差点を直進してみたが、先程のようにゲートが閉まっており、これ以上は進めなかった。

そもそも進んだところで道のない山奥へと向かうだけなのだが。

 

 

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Uターンすると左手側に建造物が見える。

おそらく先程の炭鉱アパートであり、これからそちらへと向かう。

正面に見えている煙突の下へは結局行けなかった。

 

 

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戻って交差点横の橋を渡ると、すぐに遺産群に出会う。

 

 

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これは上の写真によれば消防団庁舎の跡。

もともと三階建てだったが、よくぞここまで崩壊したものだ。

一階が鉄筋モルタル、二・三階は木造モルタル製だったという。

 

 

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ここは看板が多い。

かつての築別・羽幌炭砿の繁栄ぶりが説明されている。

 

 

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すぐ横には炭鉱アパートの廃墟。

 

 

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見づらいが、中央の細道を挟んで両サイドの木々の裏にアパートが向かい合うように建っている。

航空写真で見る限り、左のアパートの向こうに更に二棟のアパートが続いているようだ。

 

 

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下は泥の水たまり。両サイドは濃い緑に覆われ、件の恐怖心を更に煽ってくる。

仕方なく車ごと、少しだけ入ってみることに。

 

 

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このアパートはあまり長く使われなかったらしい。

今でも窓の縁の赤色が鮮やかに残っていた。

 

 

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アパートの間の道から後ろを振り返った景色。

正面の茂みを分け入っていけば煙突まで行けたらしいが、とてもそんな気にはなれなかった。

左手にも道があったようだが、特に行くことはなかった。

右に伸びている道が橋、交差点、病院跡へ続く道だ。

このあたりは見終えたので太陽小学校へと戻る。

 

 

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前の交差点まで戻り、太陽小学校へと到着。

ここは学校として使われた後、レクリエーション用の宿泊施設としても使われた。

 

 

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ガラス類が割れている以外は、建物自体にそこまで大きな損傷は見られない。

 

 

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この廃墟にも立ち入ったレポートがネット上には数多く上げられている。

羆の剥製に突然出くわし、皆例に漏れず寿命を縮めているそうだ。

 

ちなみにこの羆の剥製、数カ所のレポートを見るたびに配置が変わっているので、何者かが動かしているようだ。

場合によっては通用口のドアの前に置かれたりしていて、闖入者を楽しませている。

 

 

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学校の右側には珍しい円形の体育館が残っている。

 

 

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(窓に筆者と車が反射していたため写真を一部加工)

車ごと入口の前まで移動し、上下左右に危険物がないことを確認して覗かせてもらうことにした。

 

 

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入り口は二つ並んでいたが、右側は通れそうにない。

 

 

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内部は圧巻である。

 

 

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規則正しく円形に組まれた鉄骨屋根は、ブルガリア共産党の廃墟にも通ずるものを感じる。

 

 

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以上で築別炭砿エリアの見学は終了だ。

 

山奥を巡る上幌別坑一帯は木々が深くてあまりいい写真も取れなかったため、写真だけまとめて上げることにする。

 

 

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これらがまとまって建っていたエリアだが、あとは基本的に山中の道路を車で走り続けるだけであった。

築別の炭鉱アパートから、このエリアを通ってはぼろ温泉サンセットプラザまではグーグルマップで約30km、車で1時間15分程度と算出された。

実際は車もほとんど通らない道なのでもう少し短くなるとは思うが、それでもある程度の距離を走ることになる。

人・車ともに充分な補給を整えて欲しい、と冒頭で述べたのはこれが理由だ。

 

 

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最後に一枚。

通りがかった看板に見つけた「三毛別」の文字。

弥が上にも緊張感が高まる。

 

 

少し長くなったが、これで築別炭砿の記事を終える。

次回はいよいよ苫前資料館、そして羆事件の現地へと向かう……。

 

羽幌・苫前日本海岸 2つの道の駅

おびら鰊番屋を終え、いよいよ本旅行のメインディッシュのひとつである苫前の町が見えてきた。

だが出発時間の遅れが響き、苫前町にある「苫前町郷土資料館」(次々回紹介予定)に到着した時にはちょうど管理者の方が鍵をかけて帰宅するところであった。

こんな時間に、羆が暴れまわったという山奥まで行くわけにもいかないので、アタックは明日に持ち越して一日目の終わりを迎えることにした。

 

 

※ 前半の苫前の写真がどれも小さい写真のままになっていますが、こちらのアップロードミスです。ご了承ください。

 

 

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グーグルマップより引用。

海岸沿いのオロロンラインを北上し、苫前町へ到達。

地図中央下付近にある黄色い点が「三毛別羆事件」の跡地である。

かなり山の奥だというのがお分かりいただけるだろう。

ちなみに苫前町郷土資料館は苫前町の街中にあるので、現地へ行くのが恐ろしいという人は資料館だけでも訪れてみるといいだろう。

後に個別記事でアップする予定だが、資料館も中々の迫力である。

 

右上の山中に赤線の枠があるが、そこはかつて「築別炭砿」および「羽幌炭鉱」と呼ばれる炭鉱町のあった地域だ。

事前に軽く調べてあり、車である程度見て回れるようだったので旅行のオプションのひとつに追加してあったのだ。

この炭鉱町については次回の記事で紹介予定。

 

 

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最初から車中泊を想定していたので、車が一晩中停まっていてもおかしくない道の駅を探す。

最初にたどり着いたのは苫前町の沿岸にある「風W(ふわっと)とままえ」だ。

名前の由来は苫前町のシンボルとも言える大規模な風力発電だ。


 

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写真は「上平グリーンヒルウィンドファーム」といって、苫前の町の数キロ南にある風車群だ。

内陸側に入ってから撮影したもので、風車の向こうが海になる。

後にも登場するが、オロロンラインにはこのような風力発電の風車が至る所にあるのだ。

 

 

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結論から言うと、風Wとままえでの車中泊は取り止めとなった。

駐車場には想像以上に車が密集しており、陽も高かったため、北上して羽幌町の道の駅に賭けてみることにしたのだ。

というわけで少しだけ周囲を散策しつつ羽幌町を目指す。

※猫を撮影するときはフラッシュ撮影厳禁。網膜を痛めると何かで読んだのだ。

 

 

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道の駅から少しだけ北に移動すると、「とままえ夕陽ヶ丘ホワイトビーチ」が現れる。

日中ならば親子連れやカップルで溢れていたのだろうが、夕方ともなるとご覧の有様だ。

ホワイトビーチとは言うが、白い砂があるのは海岸の砂浜と道路側の間の一部分だけ。

北海道苫前町 | とままえ夕陽ヶ丘ホワイトビーチ

 

 

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砂の質はこのような感じ。

 

 

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駐車場には案内板があった。

 

 

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魚介を中心に肉も野菜も穀物も穫れる。

北海道の自給力に改めて感心する。

 

 

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最下段に「三毛別」の文字を見る。

30キロも離れているのに身が引き締まる思いだ。

 

 

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上のとままえ夕陽ヶ丘ホワイトビーチの写真にあった風力発電施設の近くまで寄ることが出来た。

少しだけお邪魔して写真だけとらせていただこう。

 

 

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こんな巨大なものが頭上でグワングワンと回転していると、羆とはまた違った意味で恐ろしさを感じる。

 

 

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再び北上を開始。15分程度で羽幌町の道の駅「ほっと♡はぼろ」に到着。

温泉に宿泊施設、バラ園、北海道海鳥センターなどが合わさった比較的大きな道の駅だった。

駐車場も広く、後述のようにこちらを選んだのは正解だった。

 

 

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こちらがメインの宿泊施設「はぼろ温泉サンセットプラザ」。

 

 

時間はまだ少し早かったが、明日のことを思って狭い車中で横になっていた。

すると突然、夜空に響く炸裂音が。

 

 

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なんと狙いすましたかのようにこの道の駅で花火大会が始まったのだ。

思わぬ歓迎に、返す返すもこちらの道の駅を選んでよかったと思い直す。

 

 

しばしの余興も終わり、コンビニで夜食を購入して軽く車中で休息。

眠りにつくも、狭い車内で無理な姿勢で寝ていたために何度となく目を覚ます。

 

 

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トイレを探しに立ち入ったサンセットプラザの中では、北るもい漁業協同組合のイメージキャラクター「海老名 愛(えびな あい)」さんが迎えてくれた。

が、フロントの方には「宿泊者でないのなら出ていってくれ。トイレは外だ」といった意味のことを丁寧な口調で言われてしまい、いそいそと施設を後にした。

夜も遅かったため怪しまれたのかもしれないが、一般的な道の駅の施設と思って入ったのもまずかったか。

 

 

まだなんとなく寝付けないのでカメラテストを兼ねて周囲で撮影を開始。

以下はその時撮影したものと翌朝同じようなアングルで撮影したものだ。

 

 

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絞りだのシャッタースピードだの、聞きかじった知識で試行錯誤を繰り返す。

祖父から受け継いだこの一眼レフカメラとともに過ごす初めての旅。

まだほとんど使いこなせていないけれど、いつかいい写真が撮れるようになるといいな。

 

 

今後は築別炭砿、三毛別(資料館および現地)の記事を順にアップする予定だ。

ぜひともお楽しみに。

道の駅「おびら鰊番屋」 北海道のニシン漁文化

※前回記事までは画像設定が間違っていたらしく、修正したので今回からは少し大きな写真で見れるはず。

ということで今回は写真多め&ちょっと長い。

 

 

秩父別から山間部を抜けて日本海を目指す。

 

 

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地図は道央の少し北を拡大したもので、左の海は日本海だ。

右下に旭山動物園で有名な旭川市が見えている。

秩父別町(赤い四角)を抜け、海沿いの留萌市へ。そこから日本海沿いを北上して小平町(赤い丸)へと達した。

 

留萌市へ至る山間部には「留萌国道」と「深川留萌自動車道(無料高速)」が並行して走っているが、今回は急ぎでもなかったので下道を利用した。

トラックの車列に挟まれながらの移動であったが、景色は北海道特有の森深い山間部道路だった。

 

 

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留萌では黄金岬に立ち寄り。

 

 

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路上駐車も溢れ返るほどの賑わいを見せる観光地だった。

 

 

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ゴツゴツとした岩場で家族連れが磯遊びに勤しんでいる。

 

 

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今回の旅では海沿いの記念碑によく立ち寄ったが、これがその一発目となった。

ここで軽く気分転換し、留萌市を抜けて小平町へと北上する。

走行するのは石狩市から天塩町まで伸びる通称「オロロンライン」と呼ばれる風光明媚な海岸ルートだ。

ちなみに「オロロン」の由来は「オロロン鳥ウミガラス)」だが、近年は別種による捕食やエサの減少で危機的状況にあるという。

 

 

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目指したのは「おびら鰊番屋」だが、実は小平町の市街地からかなり北に行った場所にある。

小平町役場から距離にして北に約14km。車で15分ほど。

北海道では自治体の面積が大きいことが多く、道の駅の「町の境界付近に設置する」という特徴もあって、市街地から道の駅が遠いことがままあるのだ。

 

 

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そんなわけで北上を続け、「おびら鰊番屋」に到着する。

この頃には陽も充分に高くなり、北海道の夏にふさわしい広い青空と大きな白い雲が美しかった。

 

おびら鰊番屋は大きく分けて3つの建物から構成されており、写真中央の道の駅部分と

右奥に見える茶色い花田家番屋直売所(食堂など)、および国指定重要文化財「旧花田家番屋(通称:ニシン御殿、写真のさらに右側にある)」からなっている。

 

 

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道の駅の向かい側は道路を挟んですぐに海になっている。

 

 

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こちらは前の写真のアーチの脇に佇む松浦武四郎銅像だ。

幕末から明治にかけての探検家であり、生粋の蝦夷地マニアである。

生まれは現在の三重県だが、16歳頃から諸国を旅し、26歳のときに初めて蝦夷地(後の北海道)へと探検に出た。

 

江戸時代に間宮林蔵伊能忠敬らの探検があったものの、当時の北海道はまだまだ大自然と猛獣の跋扈する未開の地であった。

武四郎は生涯に6回の蝦夷地探検を行い、そのうち後半の3回は箱館奉行所の役人としてであった。

その探検の中で武四郎はアイヌの文化、松前藩の圧政などを見聞し、明治維新後は開拓使の役人として採用されるほどの知識を蓄えていた。

 

正直、松浦武四郎は多趣味な上に北海道関係以外にも功績が多すぎて紹介しきれないが、特筆すべきは「北海道」を命名したという点だろう。

 

武四郎はアイヌへの経緯と五街道の文化を兼ね合わせ、「北加伊道(きたかいどう)」と名付け、これが元になって現在の「北海道(ほっかいどう)」が生まれたというわけだ(詳細割愛)。

※「カイ」とはアイヌ語で「この国に生まれた者」という意味だと伝わってきたが、近年になってそのような意味が無いことが判明している。

ただしアイヌはモンゴル人から「クイ」と呼ばれていたので、それが関係しているのではないかという新説が上がっている。

 

ちなみに武四郎が「北加伊道」を名付けた地が旅の後半に登場するので、お楽しみに。

 

 

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武四郎もこの日本海を眺めたのだろうか。

 

 

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道の駅は鰊番屋に似せたデザイン。

建物の前面と歩道までが屋根付き通路になっていて、雨の日でも車を寄せることが出来る。

なおドライバーは車を停めたあと濡れる模様。

 

 

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正面玄関。

「ヤン衆」とはニシン漁業に従事した出稼ぎ労働者の俗称で、「雇い衆」の転訛ではないかと考えられている。

当時は蔑称として用いられており、「よそ者、流れ者」というニュアンスが強かったようだ。

もっとも、今となってはニシン漁業文化を象徴する文化的な響きが強いようであるが。

 

 

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木の匂いを全面に押し出し、そこを大漁旗と吊り提灯で彩るホール。

 

 

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入って左手側を進むと売店や、ニシン漁に関するちょっとした展示がある。

お土産とともに地元の野菜が売られているのがなんとも道の駅らしい。

 

 

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2階には展示室がある。

 

 

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小平の歴史や教育、農業などに関する展示だ。

 

 

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続いて隣の花田家番屋直売所。

どうもWikipediaの写真を見ると別の建物が写っているので、道の駅共々、最近になって建て替えられたものだろう。

 

 

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内部は食堂+土産店といった具合。

訪問時の時刻はすでに16時前だったが、昼食を摂っていなかったため腹ごしらえをすることに。

 

 

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券売機で券を買い、調理場に提出して呼び出しを待つ。

値段はまちまちだが、1000円前後のメニューが多いように見受けられる。

 

気分的には刺身定食や海鮮丼だったが、せっかくニシン漁文化に触れに来たのであえて「ニシン丼(950円、味噌汁付き)」をチョイス。

 

 

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呼ばれて受け取りに行き、ニシンの切り身と細切れの数の子が豪快に載せられたボリューミーな外観。

 

味は……まあまあ(笑)

五つ星レストランではないので当たり前の話で、決して悪くはなかった。

海鮮丼志望だったのも影響したかもしれない。

 

それよりも料理の衛生状態が少し引っかかった。

あまり言うと営業妨害にもなりかねないので控えておくが、多分耐えられない人は耐えられないようなことだと思われる。

どちらかと言えばスタッフの業務姿勢の結果の産物であるが……。

みなさんも実食の際はそのあたり、ある種の覚悟を持って頂きたい。

 

ちなみに浜辺である以上仕方がない「ハマベバエ」というコバエが飛んでいたが、そのことではないのであしからず(もっとも、その時点でアウトな人もいるだろうが)。

 

 

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腹も満たし、いよいよニシン御殿こと旧花田家番屋へと足を踏み入れる。

 

 

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こういったニシン御殿と呼ばれる家屋は道内の日本海側各地にあったようで、この旧花田家番屋はその中でも最大規模のものだという。

 

そもそもニシン御殿とは、ニシン漁で財を成した地元の網元が建て、自分の家族と漁師や職人など集団が一緒に住めるようにした居住施設だ。

ただし定義や記録など、判っていないこともまだまだ多いようだ。

 

最近ではマンガ大賞2016を受賞した「ゴールデンカムイ野田サトル著)」で見聞きした方も多いだろう。

 

 

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玄関を入ってお金を払い(券売機だったかも?)、受付のおじさんからパンフレットを受け取る。

横の靴箱でスリッパに履き替え、順路に従って物置のような廊下に入っていく。

ニシン漁に関わる様々な器具が展示されているが、展示に気を取られていると足元に梁のようなものが出てくるので注意だ。

 

 

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廊下をぐるりと抜けると入り口の対角側に出る。

 

 

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これが鰊番屋の一番広い部分で、ここに様々な漁師や職人たちが起居していたのだろう。

 

 

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天井の梁の構成が見事で、気がつけば上ばかり向いていた。

 

 

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下の囲炉裏には発掘された仏像が。

屈んで小銭を投じると見事に跳ね返ってきた。

 

 

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一段高くなっているのは「寝台」。

この上にも多くの男達が寝転んでいたわけだ。

ちなみに最初に通ってきた廊下はこの寝台の下を通っている。

 

 

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iPhoneのパノラマ機能で寝台の上から撮影。

実際は写真よりもっと広く感じる空間だった。

 

 

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建物は中央の土間によって用途が左右に分かれている。

この写真だと、右側の方がさっきまでの広い空間で、この座敷を含め左側の方は

家主の居住空間というわけだ。

 

 

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左は建物の外(海に面している)を覗いたところ。

この窓があるのが右の写真の部屋で、勘定係の部屋のようだ。

窓と部屋の位置関係は概ね写真の並び通りだったので、イメージできるように並べてみた。

ちなみに右の写真の、さらに右方向を見た写真が一つ上の座敷の写真である。

 

 

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勘定部屋の展示物(認定証のみ最初の座敷部屋に掲示)。

 

 

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最初の座敷写真の反対側から撮ったもの。

奥の人がいる明るい部屋が勘定部屋である。

 

続いて、更に奥へと進んでみる。

 

 

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座敷より更に奥は、和洋折衷(この写真はまだ和風)の奥座敷となっている。

より主のプライベートに近づいた空間なのだろう。

 

 

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多くの部屋は立入禁止なので妙な角度の写真が多い。

 

 

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こちらはトイレだ。

便器が洋風デザインの瀬戸物で出来ている。

 

 

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地味にこういう部分が気になってしまうのは何故なのだろうか……。

 

 

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和式便器の方は二部屋あり、個室だがドアに色ガラスが入っている。

美しいが、人が来たら丸見えではないのか……?

ちなみに小便器に至っては廊下を曲がった突き当たりにある。

それくらい、このあたりがプライベートな空間ということなのだろう。

 

 

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欄間。

 

 

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階段の上は「商談の間」。

たとえ家族であっても口出し無用の空間だ。

 

 

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中庭の様子。

 

 

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写真ではわかりづらいが、歪みがある所謂「大正ガラス」だ。

明治から大正の時代にかけて製造され、技術的問題で歪みがついたのだが、今となってはそれが一種のレトロさとして親しまれている。

 

近代建築などを訪れる機会があったときには、注目してみると良いだろう。

 

 

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その他の部屋(右隣の写真が各部屋の説明板)。

立入禁止が多いのが残念だ。

 

 

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屋外にも雑多な感じで展示物があるが、一部は海岸の風雨に晒されてもうボロボロである。

 

 

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いかがだっただろうか、おびら鰊番屋。

あくまでも道の駅であり、コレだけを目当てにここまで来る人はあまり居ないだろうが、道中の一服と腹ごしらえのついでにニシン漁文化の空気に触れてみるのも、また一興だろう。