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週刊 日本を歩く

管理人が日本で見つけた物をフリージャンルで紹介します。 「週刊」と銘打ってはいますが、更新頻度はまちまちです。 日毎もあれば月毎になることもあります。 なにはともあれ、お付き合いください。

江田島と音戸の瀬戸公園 海軍要塞と清盛の伝説

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この日は呉市街を抜けて江田島へと向かった。

しかし生憎の雨。

中々激しく、車から降りるのも大変だった。

 

 

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また呉湾沿いに、アレイからすこじま方面へと南下していく。

アレイからすこじまについては以下の記事からどうぞ。


 

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途中にはかの有名な、大日本帝国海軍の呉鎮守府(通称:呉鎮)の赤レンガ庁舎がある。

※走行中の車両の助手席から撮影したため、門柱しか収められなかった。

 この後も車中からの写真でいいものはあまりなかった。

 

現在は海上自衛隊の呉地方総監部庁舎として使用されており、日曜日の一般公開時や

特別なイベント時には一般人も立ち入ることが出来るようになっている。

以下に公開に関しての呉地方隊のリンクを貼っておくので、興味のある方はよく参照していただきたい。

呉地方隊:イベント情報【日曜日の一般公開】

 

 

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碇泊する護衛艦隊を横目に、瀬戸内海へ突き出す半島を南下していく。

次第に雨は激しさを増してゆく。

 

 

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半島の先端には平清盛の伝説で知られる音戸の瀬戸公園がある。

唐突で申し訳ないが、いきなり到着している。

 

公園は半島の先にある小高い山の上に作られているが、車で簡単に登れるのでアクセスは決して悪くない。

ちなみにこの写真の場所はまだ中腹である。

 

 

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先ほどの写真からさらに頂上までの登ると駐車場がある。

実はこの音戸の瀬戸公園、明治時代に広島湾を守る要塞の一部として構築された要塞群の一つなのだ。

 

この駐車場一帯は旧「高烏(たかがらす)砲台」。

写真の花崗岩のブロックで囲まれた芝の区画が砲座の跡で、ここには明治期の海岸砲として有名な28サンチ榴弾砲が設置される予定であった。

28サンチ榴弾砲日露戦争で旅順のロシア軍要塞を粉砕するのにも使用された巨砲だ。

この高台には同じ区画が3つある。

 

※写真の左側に案内看板が見えると思うが、その更に左側が駐車場となっている。

 台数はそれほど多くないので、混雑時には停められない可能性もあるので注意だ。

 

 

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砲座の横には弾薬庫と、そこへ降りる階段が綺麗な状態で残っている。

ただし階段の入り口は柵で閉じられており、降りるのは推奨できない。

 

 

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こちらは別の弾薬庫。

同様に入ることはできない。

 

 

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屈んで入り口にカメラを向けてみれば、少しだけ中が見える。

入ったところで横に折れているように見えるが、明治期の要塞で入り口を曲げるのは珍しいように思える。

空爆もなく、入り口が海を向いているわけでもないので)

昭和期にも使用されたので、あるいはその頃に改築されたのかもしれない。

呉市設置の案内板にある『明治中期の軍港を護る要塞砲の形式としては珍しいものです』という表記はこのことを指しているのだろうか。

 

ついでなので、軽くこの砲台の由来について触れておこう。

この高烏砲台は明治19年7月の呉軍港設置とともに、敵の艦砲射撃に備える軍港防備の要塞として陸軍が構築を検討したものだ。

陸軍予算として閣議にまで上がったが、結局この時は第一期計画から除外されることになる。

やがて日清戦争を迎えて広島に大本営を置くことになるが、こういった情勢が要塞設置への議論を再燃させた。

……と、ここまではおおよそ案内板の説明通りなのだが、この後の表記が混乱を産んだ。

案内板には『明治二十九年陸軍の手によって砲台、火薬庫、兵舎などの工事が始まり、引き続き同三十二年から三ヶ月の歳月を費やして完了しました(原文ママ)』とある。

 

筆者が最初に解釈したのは、「明治29年に最初の工事が開始されたが、何らかの理由で工事が中断。結局工事は明治33年の3ヶ月間で完了した」という具合だ。

期間で言えば都合4年。その最後の3ヶ月がラストスパートだったと受け取れる。

 

が、確認のために他所のウェブサイトを調べてみると、これまた別の解釈が出てきた。

 

一つは、「3ヶ月」という表記が誤りで、正しくは「3ヶ年」だろうというもの。

筆者は素直に「明治29年~32年なら工事期間は4年間」と計算したが、明治29年の何月に作業が始まり、明治33年の何月に工事が完了したか正確な資料がないので、計算によっては工事の期間を3年と見ることもできそうだ。

となればこの説も頷ける。

 

もう一つは年月まで特定したサイトで、そこの略年表によると、「明治33年12月に高烏堡塁砲台の起工」、「明治35年6月に高烏堡塁砲台の竣工」とされている。

こちらの年表では工事期間は一年半程度でしかないので、筆者の解釈とも先の説ともかけ離れてしまっている。

 

結局のところ資料がないので結論は出せないが、一つの事柄に関してここまでデータがブレるのがインターネットの恐ろしさだ。

昨今は大学生もインターネットの情報をレポートや研究に使用したりするようだが、情報の精度には充分に注意を払ってもらいたい。

 

 

話は戻って「音戸の瀬戸」の由来となった伝説を。

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海峡を見下ろすように建っている「平清盛公日招像」。

 

平安時代平清盛日宋貿易のために開削したのがこの海峡の始まりだ。

10ヶ月の難工事の後、ついに工事は最終日を迎えるが、無情にも太陽は水平線の向こうへと沈んでいこうとする。

そこで見守っていた清盛はすっくと立ち上がり、金の扇を振りかざすと、沈みかけていた夕日は再び高く昇り、ついに工事を終えることに成功した。

……というのが、この音戸の瀬戸に伝わる清盛の「日招き」伝説である。

 

別のパターンとして「工事を一日で終えるために扇で夕日を扇いだ」というものもあるが、いずれにせよ、清盛がこの瀬戸を開削したことに変わりはないだろう。

 

 

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やはり生憎の雨で景色もパッとしないが、晴れた日には中々の壮観だろう。

 

写真中央は音戸の瀬戸にかかる「第二音戸大橋(2013年開通)」。

左側に少し見えているのが古い「音戸大橋(1961年開通)」だ。

どちらも赤いアーチが特徴。

古い音戸大橋は1974年8月に無料化されるまで、普通自動車120円、バス200円、自転車10円、歩行者5円と料金を取られていた。

 

対岸に見えるのは倉橋島

その島から更に橋を渡った先に江田島がある。

 

 

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かなり判りづらいが、写真右から突き出た枝の背後あたりに江田島が薄っすらと見えている(はず)。

 

 

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呉港方面を望む。

 

音戸の瀬戸一帯にはツツジが咲き乱れており、4月下旬辺りが見頃とのこと。

この日はゴールデンウィークなので、シーズン的には悪くないのだが、この天気である。

 

 

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清盛像から下を覗き込むと、兵舎の廃墟が姿を見せる。

※厳密に言うと、山を登ってくる途中ですでに目に入るのだが、今回は一旦上まで上がってみたのだ。

 

 

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写真では伝わらないが結構激しい雨であり、あまり満足の行く撮影はできなかった。

 

 

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音戸の瀬戸公園を離れ、第二音戸大橋を渡って倉橋島へと渡る。

 

 

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倉橋島を駆け抜け、早瀬大橋を渡って江田島へ。

 

 

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そしてまさかの、江田島での写真はこの一枚となる。

 

江田島といえば旧海軍時代から海の男達が心身を鍛える帝国海軍のメッカであるが、実は今回、明確な目的があって訪問したわけではなかった。

何か目につく物があれば、というふんわりした気持ちで来訪したのだが、折からの大雨もあり、結局車で走り抜けた程度で終わってしまった。

 

物足りないのは筆者も同じであるが、今回の記事はここまでである。

 

次回は厳島神社広島市の記事を上げたいと思う。