週刊 日本を歩く

管理人が日本で見つけた物をフリージャンルで紹介します。 「週刊」と銘打ってはいますが、更新頻度はまちまちです。 日毎もあれば月毎になることもあります。 なにはともあれ、お付き合いください。

アレイからすこじま 自衛艦艇停泊地と旧海軍の遺産

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所変わって広島県呉市の公園「アレイからすこじま」。

海上自衛隊の第一潜水隊群司令部に隣接する公園で、これだけ近い距離で潜水艦が見れる場所は日本国内でもここだけだ。

 

「アレイ」とは英語の「alley」で、意味は「小路、遊歩道、球技場」など。

「からすこじま」とは、呉港にあった周囲30~40メートルの小さな島「烏小島」に由来する。

 

明治22年に呉海軍工廠の建設が始まり、烏小島は大正の初めに魚雷発射実験場にするために埋め立てられて陸続きになったそうな。

辺り一帯は工業地帯となったが、今では烏小島の名残はこの「アレイからすこじま」という名前だけのようである。

※艦艇の写真は幾分ズームしたものなので、実際はもう少し遠い。

 

 

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時系列的には逆になるが、案内板に従って少し山を登った駐車場にあった石碑。

かつてこの辺り一帯が天下の呉海軍工廠として、大日本帝国海軍の艦艇や兵器を作り出していたことを偲ばせる。

ここで生まれた大和をはじめとする多くの船達が太平洋に散っていった。

 

 

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駐車場を出て坂道を下って行くと、数分でアレイからすこじまに到着する。

周囲には呉工廠の名残と思われる工場や、写真のような赤レンガ倉庫群などもある。

これも呉工廠の電気部だった建物で、現在は民間の所有となっている。

 

後述の物件も含め、こういった建築土木の歴史と技術を現在に残しながら公園化されているということが評価され、アレイからすこじま一帯は平成21年度に「旧呉鎮守府兵器部護岸及び関連施設」として土木学会選奨土木遺産に認定された。

 

ちなみにこの道路を挟んだ反対側が、アレイからすこじまの岸壁になっている。

 

 

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石柱には「海上自衛隊」「潜水艦桟橋」とある。この写真の左側が遊歩道のある岸壁だ。

 

この門は関係者向けで、右上の階段は道路を挟んだところにある自衛隊施設から直接伸びている。

撮影中にも実際に階段を使った自衛官の出入りがあった。

 

 

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桟橋の先には停泊するいくつもの潜水艦。

肉眼ではもう少し遠いが、それでもこれだけの至近距離で現役の潜水艦を見れる機会はそう無いだろう。

 

 

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潜水艦の隣には、これまた幾隻もの護衛艦が満艦飾に彩られて停泊している。

さすがに最新鋭のイージス艦、というわけにはいかないが、数が揃っているため中々に壮観である。

 

 

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この異質な鋼鉄の塊が停泊していると、それだけでとてつもない存在感を与えてくる。

(役割を考えると存在感があってはいけないのだが)

およそ日常では目にすることのない色・形・大きさがきっとそうさせるのだろう。

 

 

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右方の艦隊に目を奪われがちだが、反対側にも存在感のある彼(正確には「彼女」か)らが待っている。

かつての魚雷積載用クレーンで、先述の土木遺産の担い手の一人である。

奥に停泊してるのはひびき型音響測定艦の2番艦「AOS-5202『はりま』」(後述)。

 

 

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近づいてみるとこれも無骨で存在感がある。

特にメンテナンスされているというわけでもなく、サビや風化のなすがままである。

すこし危険だが足場を伝って中に入ることもできた。

 

 

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入ってから判ったが、足場もサビて鉄板が腐食したりしているので、外観を見ることだけに留めておいたほうが良いだろう。

中にはこれといって見るものもないので、無用な怪我をしないためにもだ。

 

 

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こちらも満艦飾に彩られた、ひびき型音響測定艦の2番艦「AOS-5202『はりま』」。

 

音響測定艦」という聞き慣れない艦種だが、簡単に言うと潜水艦探知艦だそうだ。

詳細は割愛するが、探索曳航アレイシステムという、ソナーを海中に落として紐で引っ張りながら潜水艦を探知するシステムらしい。

 

「アレイ」という響きに「もしや『アレイからすこじま』と何らかの関係が……?」などと勘繰ってみたが、こちらの「アレイ」は「array」という綴りで「整列、配列、美装」といった意味だった。

イージス艦などの「フェーズド・アレイ・レーダー」と同じ意味合いだろう。

 

 

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はりまの後部。

特徴的な双胴の船体に、後方のゲートが目立つ。

 

 

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意外と透明度の高い呉港。

実はこの花崗岩の護岸も、先述の土木遺産の一部なのだ。

船に気を取られて肝心の遊歩道をあまり撮影していなかったが、道の脇には古い大砲(幕末~明治前期?)が置かれているので、興味のある方は調べてみると良いだろう。

 

最後に走行中の車の助手席から撮影した戦艦大和の建造ドックを。

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諸事情で止まれなかったので、これくらいしか撮れなかった。

 

左の建物の中に戦艦大和(当時世界最大)や潜水艦伊400(当時世界最大)を建造したドックがあるそうだ。

なんと現役。感慨深いものである。

 

 

次の記事では広島訪問の目玉、「大和ミュージアム」をご紹介したい。

この地で生まれた戦艦大和がどのような運命を辿ったのか。

歴史を振り返ることは未来を見通すことと等価である。

 

錦帯橋 流失と再建の織り成す名勝の歴史

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横山にそびえる岩国城から見下ろした錦帯橋

川幅約200メートルの錦川に架かり、藩主や上級武士の屋敷がある「御土居(おどい)」と、対岸の中下級武士や町民の住む城下町を結んでいる。

写真手前が御土居側、奥側が城下町となっている。 

 

 

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築城当初からこの錦川を渡る方法は問題になっており、たびたび橋が架けられては洪水によって流失していた。

錦川は川幅が広く、蛇行する流れは速く、川底は砂利が深く堆積しており、橋を作るには悪条件が重なっている。

 

 

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現在の5連アーチ橋形式で初めて橋が作られたのは三代目領主・吉川広嘉の時代だ。

中国の絵にヒントを得た広嘉は、水の抵抗を減らすように尖らせた橋脚など、いくつかの改良を施して橋を作らせた。

そして延宝元年(1673)10月1日。

やっと待ち望んだ「錦帯橋」が完成するのだが、なんと翌年(1674)5月28日の洪水で早くも流失してしまう。

しかし年内にすぐ再建され、石垣の技法や敷石の改善、捨て石の投入などの改良により、この橋が昭和期まで存続することになる。

 

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が、276年間流されることのなかったこの橋も、昭和25年(1950)9月13日のキジア台風による濁流によってついに流失してしまう。

※同台風によって厳島神社も高潮の被害を受けている。

 

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国や県の補助を受けて再建されることになったが、岩国市の「原型で再建したい」という要望に反し、「近代的なコンクリート橋にすべし」との上からの声が強くなる。

が、市民の活動なども実り、昭和27年(1952)12月26日に架橋完了。翌年(1953)1月15日に渡り初め式が行われた。

 

再建にあたっては、再度の流出を防ぐため、橋脚の基礎をコンクリートにすること、高さを1メートル高くする、一部に鉄製部材を用いることなどの改良が施された。

平成13年(2001)からは3年がかりで「平成の架替」が行われ、橋の木造部分すべてが交換された。

つまり現在の錦帯橋は橋脚が昭和時代、橋自体は平成時代のものということになる。

錦帯橋重要文化財や史跡ではなく「名勝」指定であるという所以はこういうところにあるのかもしれない。

 

今後も一定の期間を経るごとに架替や橋板の張替が行われ、江戸時代以来の技術を語り継いでいくという。

 

 

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5連アーチということで、5つの木造アーチ橋が連なっている。

両外側のアーチは緩やかで、中央の3つの橋が急なアーチとなっている。

写真は急アーチから次の急アーチ(錦帯橋の中央部)を見たところ。

結構な高低差があることがわかるだろうか。

 

平成10年(1998)5月6日には、この橋を軽トラックで渡った三人の愚か者が逮捕されるという事件が起こり、この際の傷の修復に約220万円もの費用がかかったという。 

日付からするとゴールデンウィークのようだが、テンションが上ってしまったと言い訳するにはあまりにも悪質な愚行だ。

 

 

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その他に気をつけていただきたいのは、急アーチの麓から頂点の少し手前までは浅い階段状になっていることだ。

最初のゆるい橋から景色を眺めたり余所見をしつつ次の急アーチ橋へ入ると、突然階段になっていて転んだり躓いたりする恐れがある。

転んでも木造なので大した怪我もしないだろうか、この階段が幅も高さも中途半端でなんとも歩きづらかった。

 

 

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こちらは城の反対側。

かつての中下級武士や町民が住む城下町が残っており、情緒感たっぷりだ。

 

 

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原型よりも1メートル高く再建されたとはいえ、アーチ頂部と川面との高低差は圧巻だ。

この日は天気がよく、川の水量も少なかったため、特に高低差が際立っていた気がする。

 

 

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川原には錦川の対岸を結ぶ船渡しの屋形船乗り場がある。

ただ渡るだけではなく、錦帯橋と並ぶコンクリート製の橋の下を回ってから対岸に向かうため、単純に対岸に渡るだけならば橋を通ったほうが早い。

※ちなみに錦帯橋も船渡しもしっかり料金をとられるのでご注意を。

 

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吉香公園の敷地内にある徴古館では、流失したかつての錦帯橋の一部を見ることが出来る。

他にも錦帯橋に関する事物や吉川・岩国の歴史に関連する資料も展示されているので、時間ある方はぜひ訪れてみるといいだろう。

 

名勝「錦帯橋」を始めとして、総じて見どころの多い岩国城周辺。

家族連れや個人旅行でも充分楽しめるところなので、時間のある方はぜひ一度訪れてみてはいかがだろうか。

 

次の記事では呉・広島方面を紹介していきたい。

岩国城

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山口県岩国市の横山にそびえる岩国城

築城主は毛利家の家臣・吉川広家毛利元就の孫に当たる)。

関ヶ原の戦いの後1608年に築かれたが、1615年に江戸幕府から一国一城令(一つの国に一つの城しか存在してはいけない)が発せられたため、わずか7年で廃城となったという。

※詳細は割愛します。

 

現在の天守は、1962年に東京工業大学の教授によって設計された鉄筋コンクリート造の再建天守

設計にあたっては古い絵図を参考にしたようですが、麓からの見栄えがいいように実際の位置よりも頂上の際っきわに再建されており、歴史的意義は低いように思われる。

 

 

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頂上まではワンスパン方式(駅と駅の間に支柱がない)のロープウェイで移動。

麓を振り返ると、岩国の美しい町並みが海に向かって続いている。

中央を流れる川に2つの橋が見えるだろうか。

 

左側は現代のコンクリート製橋脚だが、右側の弧が連なった木造の橋こそ名勝「錦帯橋」だ。

錦帯橋については別記事にて。

 

 

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ロープウェイを降りてから杉並木の森を歩いて行くと、途中にこのような大きな井戸が出てきた。

大釣井(おおつるい)という井戸で築城と同時に築かれ、非常時における武器弾薬の保管の他に脱出口の役目もあったと伝えられている。

「城と井戸と抜け穴」という取り合わせはどこでも共通のものだ。

有名なものは姫路城のお菊井戸だ。

もっとも、実際に抜け穴であると判明した井戸は無いようだが。

※大釣井の看板には「慶長十三年(一六〇九年)」と記されていたが、誤記と思われる。

 

 

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再建天守ということだが、石垣がいつの時代のものかは判らなかった。

石垣上部は別の再建天守でも見たように白っぽい石だが、一方で下部は黒ずみと草で古さを感じさせている。 

石には白い方にも黒い方にも、並んだ窪みの跡(写真中央あたり。大きなフォークで刺したような跡)がある。

多くの大名が建築に関わった城(天下普請)の石垣には、その家の家紋が掘られている場合がある。江戸城名古屋城が有名だ。

城郭探訪の際にはこれを探すのを一つの楽しみとするのもいいだろう。

 

それはさておき、この城の石垣である。

 

この写真の窪みは(素人目ではあるが)それらの大名家の家紋には見えないし、石切の跡にしてはやけに大きく、そして雑である。

もともと天守がこの場所になかったのなら、この石垣は後の時代のものだろうか。

だとすれば何の跡なのだろう。

さほど探究心を掻き立てないのは、この城が再建天守であるからだろうか。

 

 

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内部は再建天守のご多分に漏れず、博物館となっていた。

岩国城や毛利家由来の品々が展示されており、一見の価値はある。

長さ3メートルはあろうかという錦帯橋の木造模型、刀剣、甲冑、古写真、大工道具etc.

 

 

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最上階からは先程のロープウェイよりも高く岩国の景色を一望できる。

角度も変わった事でさきほどより錦帯橋が分かりやすい。

遠くには瀬戸内海を挟んで四国の山並みも見える。

 

 

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城を出て、麓と逆方向を見れば本来の天守台が見える。

写真は再建天守を背にして撮ったものであり、元の天守がどれだけ奥にあったかが解っていただけるだろうか。

 

 

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再建天守よりもずっとゴツゴツした黒い石で構成されている。

発掘調査で下部が見つかったので、それを元にして積み上げたものだそうだ。

柵の部分にニコニコしたおじさんが腰掛けて休憩していたが、多くの観光客が石垣の写真を撮ろうとしても決して退こうとはとはしなかった。

暑いので仕方がないのもあるが、おじさんに状況を理解しているフシはなかった。

※写真は樹木でおじさんを隠して撮ってある。

 

このまま歩くと破壊された石垣や、破壊されずに残った石垣なども見られるが、遊歩道は急斜面の上にある狭い道で、見学の際には注意が必要だ。

 

 

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麓の吉香公園には古い建物(木造、石造)から新しい建物(白ヘビ展示館!)がいくつも集まっており、店舗(種類最多のソフトクリーム屋もあり)も点在している。

錦帯橋付近一帯まで含めると、古い町並みも景色も自然もあらゆる視点で楽しむことができるので、家族連れでも十分楽しめるだろう。

(実際、公園の噴水などでは多くの子供達が楽しそうに遊んでいた)

 

 みなさんも美しい岩国城下で、歴史と自然に触れて見てはいかがだろうか。