軍都広島 戦争と平和の街
生まれも育ちも北海道の筆者にとって、この西日本の気候は5月といえども充分に厳しいものであった。
筆者が去った数日後から合衆国のオバマ大統領が訪問する・しない、という話題で沸き返った広島の街も、この時はまだそのような気配を見せてはいなかった。
ただ、広島最大の盛り上がりを見せる「ひろしまフラワーフェスティバル」の開催を控え、平和公園内は準備に勤しむスタッフや機材でごった返しており、マイクテストの音声なども響き渡っていた。
写真下に写る道路より右上側の島が平和公園。
公園内に3つ並ぶ建物が見えるだろうか。
右の正方形の2階建の建物が広島平和記念資料館、中央の白い細長い建物が広島平和記念資料館本館、そして一番左奥の正方形の建物が広島国際会議場だ。
平和記念資料館内の展示。中央の赤い玉が原爆の炸裂点だ。
実は筆者は学生時代の修学旅行で広島市や平和公園関連の施設を訪れたことがあり、
今回の訪問は二度目となった。
一度見れば長らく忘れることがないであろう展示物の数々。
10年近くの歳月を経て再訪したが、まるでひと月ぶりに訪れたかのような感覚であった。
展示物はすでに多くの人々がアップしていると思うので、この程度にしておく。
……というより、人が多くてあまり撮影できなかったというのが正しい。
やはり世界的に有名な施設。
見学者は老若男女問わず、人種・性別・宗教も違うと思われる人々が興味深げに展示物に見入っていた。
記念館2階から平和公園を望む。
中央のアーチが慰霊碑で、その下に犠牲者たちの名簿が収められた石碑が設置してある。
8月6日の記念日には道の両サイドの芝生に屋根が張られ、多くの関係者が集まる中、記念式典がとり行われる。
この日はフラワーフェスティバルを控え、あちらこちらに花が飾られていた。
もっと接近した慰霊碑。
アーチ内の石碑には何かと論争になる「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という碑文が刻まれている。
公式見解としては主語を「人類」と捉えているようだが、主語を書かず曖昧な表現にしたためか、多くの人びとから「日本人が日本人に謝っている」と解釈され、論争を呼んでいる。
突き詰めていくと、原爆を落としたアメリカの謝罪にすべきだという主張があり、一方で、アメリカ人の多くが原爆投下を正当化しているのでそれはおかしいという主張がある。
こういった経緯から、慰霊碑は何度も塗料やハンマーによる破壊工作を受けており、中にはかけられたペンキが収められている犠牲者名簿にまで達してしまったということもあった。
本来はもっと広いエリアを含める予定だったのだが、結局現在の中島部分だけに落ち着いた。
資料館、慰霊碑、原爆ドームが一直線に並ぶように設計されており、慰霊碑のアーチからは原爆ドームが見えるようになっている。
慰霊碑の脇を通ってさらに北上すると、道路を渡った先に「原爆の子の像」が姿を見せる。
ここには各地から送られた千羽鶴が保管されているが、2003年には約14万羽の折り鶴に放火される事件が起こっている。
こちらはムシャクシャした大学生による放火であり、政治・思想的な動機ではなかった。
原爆ドーム以外にも平和公園内や周囲には原爆遺構が所々に残されており、修復されて現在も使用されている建物(レストハウスが特に有名)などがある。
平和公園を訪れる際はあらかじめ周辺の遺構を調べておくと良いだろう。
余談だがこの日、さきほどの「原爆の子の像」手前の道路上で人身事故が発生していた。
停止した車から降りてくる若い女性と、車の前に寝転んで怒鳴り散らす初老の男性。
筆者は衝突の瞬間を見ていないのだが、周囲の野次馬は一様に「当たり屋だよ……」といった具合であった。
女性は日本語がわからないのかさっぱり要領を得ず、携帯で誰かと話しながらしばらくして車で走り去ってしまった。
喚き散らしていた男性は「骨折している」と主張していた足で歩いて近くの公衆電話に向かい、自ら救急車を呼んで運ばれていった。
広島を離れた今も尚、この事件の詳細がとても気になっている……。
公園の東側を流れる元安川。
あの日も猛火から逃れるために多くの人々が飛び込み、そして息絶えたという。
奥に見えるのは相生橋。
北から流れてきた太田川は、あの橋をくぐったあと平和公園のある島に当たって東西に別れている。
写真に写っているのが東側に分かれてきた前述の元安川で、公園の西側にはそのまま太田川の本流が流れている。
相生橋は太田川の両岸と島の北端を繋ぐT字型の橋で、上空からでも目立っていたために原爆投下の目標にされた。
実際は風の影響などにより300m程ずれ、元安橋を渡った先の「島病院」の上空で炸裂した。
島病院は現在も「島外科内科」として続いており、現地には爆心地を示すモニュメントが設置されている。
当日、偶然出張診療で市外にいた初代院長の島薫(1897~1977)は救援要請を受けて当日夜に帰還。
さっそく被爆者の救護にあたったが、島病院は一瞬で壊滅しており、80人余の職員も患者も全員が即死していたそうだ。
正式名称は「広島県産業奨励館」。
設計はチェコ人のヤン・レッツェルで1915年4月5日に竣工、同年8月5日に開館した。
つまり開館からほぼ30年ちょうどで破壊されたことになる。
爆心地に極めて近いところにあったにも関わらず、中央部の原形(特にドーム屋根)を残している。
これにはいくつもの偶然が重なっていた。
爆心地の島病院は写真右手方向に150mほど行った所にあり、原爆が炸裂したのはその上空600m付近だ。
つまり奨励館は写真で言うと、右よりのほぼ真上から爆風を受けたことになる。
ドームの鉄骨が爆風を受けた方向に少しだけ変形しているのが判るだろうか。
・爆風がほぼ真上からだったこと。
・窓が多い建物だったため、爆風が上手く外に逃げたこと。
という点から建物は全壊を免れ、特にドーム部分については屋根の素材が銅製であったため、爆風到達前の熱線で一瞬にして屋根が蒸発した。
これにより他の部分よりも爆風を逃がす割合が増え、中央部がよく残った理由だと言われている。
正面は特に他の部分よりも状態が良いのが判る。
右上から爆風を受けたため、正面左側も影になっていてダメージが比較的少なく見える。
入り口からドームの真下を見る。
建物は倒壊を防ぐために随所に鉄骨などで補強がしてある。
崩れたブロックや煉瓦も下に散らばっており、凄惨な状況が思い起こされる。
現在も新たな補強工事の準備中であり、足場が組まれていた。
こうして負の遺産を保存し記憶を語り継いでいこうという姿勢から、広島の平和に対する思いが見て取れる。
同じ被爆都市長崎にも戦後、浦上天主堂という原爆ドームに並ぶであろう遺構が存在していたが、あちらは再建の道を選んだ。
正解もハズレも無いのだが、過去と未来に対するそれぞれの街の考え方が現れているようで、なんとも対称的である。
諸説あるが、別名「鯉城(りじょう)」と呼ばれ、広島東洋カープの由来にもなった城だ(太田川が鯉の産地でもあった)。
1589年、毛利輝元の主導によって築城開始。10年後の1599年に完成している。
豊臣秀吉の天下において、毛利氏は中国地方120万石を治める大大名であった。
秀吉は広島城築城にあたり、「軍師官兵衛」で有名な黒田如水を参加させている。
その理由として、広島は朝鮮出兵の拠点となった北九州の名護屋城と、秀吉の本拠地大坂の中間地点にあるため、中継基地としての役割を期待したという説があるが、逆に低湿地の平城を本拠地にさせて毛利氏を弱体化させる狙いがあったとも言われている。
いずれにせよ広島城は毛利氏の名城として完成したが、関ヶ原の戦い後に減封された毛利氏に代わって入城した福島正則が改築を行ったため、当時の姿は不明である。
ちなみに街の名前「広島」もこの毛利氏の時代に命名されている。
当時の広島市は太田川による三角州地帯が形成されており、中洲が点在している状態であった。
その中で二番目に「広い島」を選んで築城したので、「広島」という地名になったという。
他に、毛利家の通字(代々名前に共通して入れる文字)の一つ「広」と、普請奉行福島元長の名前から「島」を取って「広島」としたという話もある。
前述のとおり、現在の1km四方の巨城になったのは福島氏の時代であるが、その福島氏も1619年に洪水で壊れた石垣を幕府に無許可で修理しようとしたために改易されてしまった。
その後入城した浅野長晟から始まる浅野氏が、明治時代までこの広島を治めることになる。
余談だが、幕府に注意された福島正則が慌てて壊したと伝わる石垣が残っている。
が、ここはそもそも洪水で破壊された石垣とは関係ない場所だという。
……どうした正則。
1873年1月の広島鎮台発足以降、広島は急速に軍都としての色を強めていく。
1888年5月、広島鎮台は第5師団へと改編。
1894年7月、日清戦争勃発にともなって広島大本営設置。同年9月から翌年4月まで明治天皇が行幸し、第7回帝国議会も開かれ、臨時の首都として機能する。
1897年4月、広島陸軍地方幼年学校(後の広島陸軍幼年学校)設置。
当時、鎮台の司令部や大本営として利用された建物の跡地。
現在は台座と石碑だけが残っている。
台座の大きさからすると、中央官庁の近代建築に比べてそれほど大きな建物ではないことが判る。
城内には広島護国神社があるが、その脇に慰霊碑と中国軍管区司令部跡の遺構がある。
半
この壕自体は「防空作戦室」と呼ばれた半地下式の鉄筋コンクリート造りの防空壕だ。
周囲の司令部建築物は原爆の爆風でほとんど破壊されたが、この壕だけは無事であった。
そのため、広島市被爆の第一報はこの壕から発せられた。
現在は公益財団法人「広島市みどり生きもの協会」というところが管理しており、事前申し込みがあれば平和学習目的に限り見学できるとのことだ。
以下にリンクを貼っておく。
いよいよ天守閣だ。
天守閣は原爆投下によって破壊されたが、長らく「爆風で吹き飛ばされたが、炎上しなかった」と考えられていた。
しかし最近の調査で、「下部二層が爆風の影響と上層部の重みで崩壊し、その後上部三層が崩壊した」という自重崩壊説がわかってきた。
戦後70年経ってやっとわかることもあるものだ。
その後1951年、広島国体開催に合わせて仮の木造天守が作られたが、国体終了とともに解体されてしまった。
現在の天守は1958年、広島復興大博覧会に合わせて鉄筋コンクリートで再建されたものだ。
外観は宮大工によって仕上げられているため、それらしい雰囲気を醸し出している。
再建にあたり、次の3つの方針がとられた。
・初代(毛利氏時代)の天守を再現する。
・最上階を展望台にする。
・内部を博物館にする。
鉄筋コンクリート製にしたのは耐火目的であり、自重が増えたので石垣も強化されている。
最上階だけを木製にしたり、意匠の一部を築城当時をイメージしたものにするなど、こだわりを見せた一方で本来とは違う意匠を取り入れたりと、いかにも昭和らしい不徹底ぶりがうかがえる。
平成の現在にあっては、もっと徹底した復元をするはずだ。
展示物は撮影禁止だったので、石落としなど。
天守閣内は中央の吹き抜けに大きな階段があり、1階登るごとに階段の周りの展示物をグルッと見て来て、また中央の階段から次の階へ登る、という行程の繰り返しだ。
見学にあたって、エレベーターがないなどの制約が多いので、貼ったリンクから見学前の注意点を確認されたし。
最上階からの眺め。二枚とも北方を望む。
二枚目の右下に石垣が見えているが、その先の木の下あたりが件の福島正則の破壊した石垣だったと思う。
城址公園内を歩いて、角の資材置き場らしき辺りへ下って行くと見られるだろう。
最後に夜の広島市を。
原爆投下から70年あまりの歳月を経て、軍都広島は平和と復興の象徴とも呼ばれる街へと変貌を遂げた。
今年2016年は、戦後初めて現職のアメリカ大統領が訪問するという出来事もあって何かと話題に上ったが、平和というものの正体は未だに曖昧である。
人類の歴史は戦争の歴史。
毎年必ずどこかで大なり小なり軍事衝突が起きているこの世界に、果たして「絶対的な平和」というものは存在しうるのだろうか。
江田島と音戸の瀬戸公園 海軍要塞と清盛の伝説
しかし生憎の雨。
中々激しく、車から降りるのも大変だった。
また呉湾沿いに、アレイからすこじま方面へと南下していく。
アレイからすこじまについては以下の記事からどうぞ。
途中にはかの有名な、大日本帝国海軍の呉鎮守府(通称:呉鎮)の赤レンガ庁舎がある。
※走行中の車両の助手席から撮影したため、門柱しか収められなかった。
この後も車中からの写真でいいものはあまりなかった。
現在は海上自衛隊の呉地方総監部庁舎として使用されており、日曜日の一般公開時や
特別なイベント時には一般人も立ち入ることが出来るようになっている。
以下に公開に関しての呉地方隊のリンクを貼っておくので、興味のある方はよく参照していただきたい。
碇泊する護衛艦隊を横目に、瀬戸内海へ突き出す半島を南下していく。
次第に雨は激しさを増してゆく。
唐突で申し訳ないが、いきなり到着している。
公園は半島の先にある小高い山の上に作られているが、車で簡単に登れるのでアクセスは決して悪くない。
ちなみにこの写真の場所はまだ中腹である。
先ほどの写真からさらに頂上までの登ると駐車場がある。
実はこの音戸の瀬戸公園、明治時代に広島湾を守る要塞の一部として構築された要塞群の一つなのだ。
この駐車場一帯は旧「高烏(たかがらす)砲台」。
写真の花崗岩のブロックで囲まれた芝の区画が砲座の跡で、ここには明治期の海岸砲として有名な28サンチ榴弾砲が設置される予定であった。
28サンチ榴弾砲は日露戦争で旅順のロシア軍要塞を粉砕するのにも使用された巨砲だ。
この高台には同じ区画が3つある。
※写真の左側に案内看板が見えると思うが、その更に左側が駐車場となっている。
台数はそれほど多くないので、混雑時には停められない可能性もあるので注意だ。
砲座の横には弾薬庫と、そこへ降りる階段が綺麗な状態で残っている。
ただし階段の入り口は柵で閉じられており、降りるのは推奨できない。
こちらは別の弾薬庫。
同様に入ることはできない。
屈んで入り口にカメラを向けてみれば、少しだけ中が見える。
入ったところで横に折れているように見えるが、明治期の要塞で入り口を曲げるのは珍しいように思える。
(空爆もなく、入り口が海を向いているわけでもないので)
昭和期にも使用されたので、あるいはその頃に改築されたのかもしれない。
呉市設置の案内板にある『明治中期の軍港を護る要塞砲の形式としては珍しいものです』という表記はこのことを指しているのだろうか。
ついでなので、軽くこの砲台の由来について触れておこう。
この高烏砲台は明治19年7月の呉軍港設置とともに、敵の艦砲射撃に備える軍港防備の要塞として陸軍が構築を検討したものだ。
陸軍予算として閣議にまで上がったが、結局この時は第一期計画から除外されることになる。
やがて日清戦争を迎えて広島に大本営を置くことになるが、こういった情勢が要塞設置への議論を再燃させた。
……と、ここまではおおよそ案内板の説明通りなのだが、この後の表記が混乱を産んだ。
案内板には『明治二十九年陸軍の手によって砲台、火薬庫、兵舎などの工事が始まり、引き続き同三十二年から三ヶ月の歳月を費やして完了しました(原文ママ)』とある。
筆者が最初に解釈したのは、「明治29年に最初の工事が開始されたが、何らかの理由で工事が中断。結局工事は明治33年の3ヶ月間で完了した」という具合だ。
期間で言えば都合4年。その最後の3ヶ月がラストスパートだったと受け取れる。
が、確認のために他所のウェブサイトを調べてみると、これまた別の解釈が出てきた。
一つは、「3ヶ月」という表記が誤りで、正しくは「3ヶ年」だろうというもの。
筆者は素直に「明治29年~32年なら工事期間は4年間」と計算したが、明治29年の何月に作業が始まり、明治33年の何月に工事が完了したか正確な資料がないので、計算によっては工事の期間を3年と見ることもできそうだ。
となればこの説も頷ける。
もう一つは年月まで特定したサイトで、そこの略年表によると、「明治33年12月に高烏堡塁砲台の起工」、「明治35年6月に高烏堡塁砲台の竣工」とされている。
こちらの年表では工事期間は一年半程度でしかないので、筆者の解釈とも先の説ともかけ離れてしまっている。
結局のところ資料がないので結論は出せないが、一つの事柄に関してここまでデータがブレるのがインターネットの恐ろしさだ。
昨今は大学生もインターネットの情報をレポートや研究に使用したりするようだが、情報の精度には充分に注意を払ってもらいたい。
話は戻って「音戸の瀬戸」の由来となった伝説を。
海峡を見下ろすように建っている「平清盛公日招像」。
平安時代、平清盛が日宋貿易のために開削したのがこの海峡の始まりだ。
10ヶ月の難工事の後、ついに工事は最終日を迎えるが、無情にも太陽は水平線の向こうへと沈んでいこうとする。
そこで見守っていた清盛はすっくと立ち上がり、金の扇を振りかざすと、沈みかけていた夕日は再び高く昇り、ついに工事を終えることに成功した。
……というのが、この音戸の瀬戸に伝わる清盛の「日招き」伝説である。
別のパターンとして「工事を一日で終えるために扇で夕日を扇いだ」というものもあるが、いずれにせよ、清盛がこの瀬戸を開削したことに変わりはないだろう。
やはり生憎の雨で景色もパッとしないが、晴れた日には中々の壮観だろう。
写真中央は音戸の瀬戸にかかる「第二音戸大橋(2013年開通)」。
左側に少し見えているのが古い「音戸大橋(1961年開通)」だ。
どちらも赤いアーチが特徴。
古い音戸大橋は1974年8月に無料化されるまで、普通自動車120円、バス200円、自転車10円、歩行者5円と料金を取られていた。
対岸に見えるのは倉橋島。
その島から更に橋を渡った先に江田島がある。
かなり判りづらいが、写真右から突き出た枝の背後あたりに江田島が薄っすらと見えている(はず)。
呉港方面を望む。
音戸の瀬戸一帯にはツツジが咲き乱れており、4月下旬辺りが見頃とのこと。
この日はゴールデンウィークなので、シーズン的には悪くないのだが、この天気である。
清盛像から下を覗き込むと、兵舎の廃墟が姿を見せる。
※厳密に言うと、山を登ってくる途中ですでに目に入るのだが、今回は一旦上まで上がってみたのだ。
写真では伝わらないが結構激しい雨であり、あまり満足の行く撮影はできなかった。
そしてまさかの、江田島での写真はこの一枚となる。
江田島といえば旧海軍時代から海の男達が心身を鍛える帝国海軍のメッカであるが、実は今回、明確な目的があって訪問したわけではなかった。
何か目につく物があれば、というふんわりした気持ちで来訪したのだが、折からの大雨もあり、結局車で走り抜けた程度で終わってしまった。
物足りないのは筆者も同じであるが、今回の記事はここまでである。
てつのくじら&大和波止場公園 街の中にある巨大潜水艦
街の中にデンと現れた巨大な潜水艦。
退役した海上自衛隊のゆうしお型潜水艦「あきしお(SS-579)」だ。
1986年に竣工し、2004年に退役してここに展示された。
つまり2016年現在、御年30歳となる。
「てつのくじら館」という名前で有名だが、正式には「海上自衛隊呉史料館」であり、資料館自体はこの潜水艦の背後に普通の建物として建っている。
潜水艦をくぐって建物に入り、見学を進めて建物の3階から渡り廊下で潜水艦に入ることが出来る。
大和ミュージアムの記事でも紹介したが、この辺りは施設が集中しているので移動は楽である。
左が大和ミュージアム、奥がてつのくじら館、右が大型ショッピングセンターだ。
ショッピングセンター1階からてつのくじら館は目の前だが、雨の日は注意。
大和ミュージアムの2階窓から見たてつのくじら館。
長い。そしてデカイ。
背後に茶色の資料館本館が見える。
ショッピングセンターから傘を差してささっと歩き、すぐに潜水艦の下に入った。
写真上部、胴体に着いた雨による水の筋が見えるだろうか。
普通の建物の屋根ではなく、頭上に巨大な船舶が浮いている、というある種の非現実感はまさに圧巻である。
開館時間はまさに公務員の勤務時間帯。
毎週火曜定休(火曜が祝日だと翌日が休館)なので、訪問の際は注意だ。
中では現役自衛官(確認済)と退役自衛官(らしき人)が通路の案内などをしていた。
展示内容は海上自衛隊の歴史に始まり、潜水艦を前面に出しているだけに機雷・魚雷・
潜水艦に関する展示が多かった。
艦内を再現した区画や、実際に覗ける潜望鏡などもあり、ここでしかできない体験が数多く存在する。
驚いたのは、第二次世界大戦時の潜水艦の望遠鏡性能比較コーナーで、日本側の望遠鏡はなんとあの「伊400型潜水艦」のものであった。
伊400といえば当時世界最大の「潜水空母」だ。
潜水艦でありながら艦内に3機の水上機を収容可能という最先端兵器であったが、真価を発揮せぬまま終戦を迎えてしまった。
そんな伊400型の望遠鏡がここにあった(伊400のものとは言っておらず、あるいは日本の潜水艦はどれも同じ望遠鏡を装備していた可能性もある)。
本体はガラスケースに囲まれているが、実際に遠くにある呉港のクレーンなどを覗き見ることができる。
米軍のもあるが、比べてみると日本軍のほうが光学機器の技術は優っていたようだ。
いよいよ渡り廊下を伝って潜水艦あきしおの中へと足を踏み入れる。
内部は撮影禁止であり、当日は混んでいたので細部をじっくり見るわけにはいかなかったが、それでも普段決して見ることのできない貴重な体験ができた。
見どころは、
・艦が役目を終えた時間で止まった時計
・実際に外部を見てもいい潜望鏡
・見学のために隔壁に開けられた通路(!)
といったところか。
現役の潜水艦では隔壁の出入りには円形のハッチを通るのだが、一般人でも見学しやすいように壁をぶち抜いて通路を作ってあったのだ。
潜望鏡のある部屋では、タイミングによっては室内灯を真っ赤な光に変えてくれることもあるようだが、筆者の訪れた時にはなかった。
入り口から見た出口の渡り廊下。
そう、見学コースはさほど長くはないのだ。
入って前方に進んであそこから出てくるだけ。
それでも現役に近い潜水艦の中を見れるのだから、それだけで御の字だ。
出口から見上げた潜水艦の艦橋。
本当に巨大である。
このまま海に発進しそうなほど艶々しい外観だ。
続いて、大和波止場公園だ。
大和波止場公園は大和ミュージアムのすぐ裏にある。
駐車場には徹甲弾型の柵。
大和ミュージアムはガラス張りなので、裏からでもライトアップされた館内が見える。
美しいので、開館中にやってもいいと思うのだが。
誰もいなくなった展示室。
あるいは、閉館後でも外から見学できるようにするためのライトアップであろうか。
屋外展示としては、この「しんかい」がある。
日本初の有人深海調査艇で、実用最高深度は600メートル。
1970年から日本近海の海底調査で多数の成果を上げたが、母船とともに老朽化して1977年に引退となった。
その後は後継の「しんかい2000」および「しんかい6500」が引き継いでいる。
ちなみに後継の2隻は「海洋研究開発機構(JAMSTEC)」の所属だが、「しんかい」は海上保安庁の所属だそうだ。
そのため現在、海上保安庁が保有した唯一の潜水艇となっている。
しんかいと反対側には別の展示施設があったが、中は空っぽで案内板も真っ黒だった。
後に調べてみると、ここには水中翼船「金星」があったが、老朽化で撤去されてしまったという。
日本の屋外展示はどうしていつも、こういう憂き目に合うのだろうか。
さて園内でまず目に留まるのは、この見慣れない構造物だ。
これは戦艦大和の艦橋の最上部を模した休憩所だ。
実はこの大和波止場は、戦艦大和の甲板をそれとなく再現した構造になっている。
写真中のオレンジの線で囲まれた部分を再現しており、大和の巨大さがわかる演出になっている。
グーグルマップで見てみると一目瞭然だ。
地面は大和の武装の種類と位置を象ったタイル張りになっている。
写真は対空兵装の25ミリ3連装機銃。
そしてこの機銃が乗っているのが大和の46センチ3連装主砲塔だ。
機銃の奥に46センチ砲の太い砲身(のタイル)が見える。
艦首の方へ向かうと緩やかな上り坂になっており、よりリアリティのある作りになっている。
すぐ奥は海で、この日は風が強かったために波が飛沫をあげていた。
大和の先から呉の港を望む。
先程から位置は少しずれているが、振り返れば大和ミュージアムと丸いドームのフェリーターミナルが見える。
大和艦首の緩やかな上り坂が判るだろうか。
こちらはiPhoneのパノラマモードで撮影したもの。
艦首は見事に半分だけ再現されており、横には錨が展示されている。
なお艦首の材質は、よく公園のオブジェなどに使われている表面のゴツゴツしたもの(モルタル?)だった。
戦艦大和の主錨と書いてあるが、こちらは実物大の複製品らしい。
フェリーが入港してくる。
風が強く、波が岸壁に打ち付けられて今にも飲み込まれそうだった。
これは何だったのだろうか。
大和波止場自体の見どころは以上だ。
この公園単体を目的に訪れることはないだろうが、大和ミュージアムやてつのくじら館のついでに歩いて散策するには調度良いだろう。
最後に、戻りがてら再び撮影した周辺の画像を載せてゆく。
夜になるとちゃんと舷灯が点灯する。
こちらは左舷なので赤色。反対側はおそらく緑色に光っているはずだ。
ホテルから呉市の夜景を一枚。
これにて呉市観光は終了。
次の記事では、江田島方面へと出向いた記録を掲載したい。