三毛別羆事件現地 日本最悪の獣害事件
いよいよ来た。
この旅行のメインイベントの一つ、三毛別羆事件の現場(への道程)。
前記事同様、事件については特に説明しない。
事件が発生した1915(大正4)年当時の地名は「北海道天塩国苫前郡苫前村大字力昼村三毛別御料農地6号新区画開拓部落六線沢」というらしい(wikipediaより)。
現在のところ、地名は行政的に消えたり残ったり、地元の人が呼んでたり、事件名で有名になったりとなかなかややこしい。
まあ長ったらしいので、『当時は「苫前村の三毛別の六線沢」で発生し、そこは現在「苫前町の三毛別の三渓」と呼ばれている』くらいの認識でいいと思う。
とにかく、見学目的で向かう場合は苫前町の「三渓」という場所を目指せばいい。
上の写真には「三渓」と「力昼」の地名が写っている。
力昼といえば、前記事のトドが打ち上げられた海岸ある場所だ。
事件の内容のせいか、あまり大々的に宣伝するつもりはないのかもしれない。
距離やクマ出没の可能性も考えると、現地へは最低でもバイクくらいは必要になりそうだ。
ベアーロードに入る最初のポイントさえ間違えなければ、道なりに現地まで向かうことが出来る。
道中の案内といえば、この「ベアーロード」という表示くらいしかない。
こんなに和やかな事件ではないのだが……。
現場へ近づくにつれてそれらしい単語が増えてくるが、カーナビやGoogleMapなどなんらかのナビゲーションがないと迷う可能性が強い。
日中であれば(わざわざ夜に行く人もいないとは思うが)道中の農家の方などに訪ねてみるのも手だろう。
筆者はカーナビ頼りだったが、なぜか現場を去る際に突然カーナビがお亡くなりになってしまった……。
道中は築別炭鉱に向かうときと、さほど景色が変わらない。
しかし所々に当時を偲ばせる地名や物件が残っている。
この写真は撮る位置を間違えているが、両サイドがワイヤーロープになっている場所は射止橋ではない。
その奥のピンクの欄干がある部分が正しい位置だ。
先程の写真の左奥に建っている倉庫。
ここで対岸に現れた羆を手負いにさせることができた。
この後、羆はマタギの手によって山中で射殺される。
ここで道中の案内をいくつかご覧いただこう。
「ようこそ熊嵐(くまあらし)へ」という、割と笑えない看板。
事件の別名らしく、本事件を扱った吉村昭氏の書籍名にもなっている。
ちなみにクマを殺した後に天候が急変することを「熊風(くまかぜ)」というらしい。
風とか嵐とか、パッと見ではややこしい。
ちなみに本事件の羆が射殺された後にも、突然の猛吹雪が吹きすさんだそうだ。
錆のせいか、おどろおどろしい羆の顔が来訪者を迎え入れる。
ベアーロードの可愛らしい看板(苫前町管理)もあれば、突然こういった恐ろしげな看板(北海道管理)も現れる。
数枚見てもらってお分かりだと思うが、案内板に統一性はほ皆無だ。
ベアーロードの看板くらいは似たようなデザインで何枚も貼り付けてあるが、三毛別事件を紹介したいのかどうか、意図が伝わりにくい。
いっそ北海道のブランド「熊出没注意」とコラボレーションしてしまうのも手だとは思うのだが。
道中、好天であるにも関わらず突然の雨。
「熊風」という言葉が頭をよぎる。
途中で三渓神社を発見。
他にも神社を見つけるたびに参拝したが、ここは少し特別かもしれない。
なぜならここには、三毛別事件の慰霊碑があるのだ。
本事件では胎児を含む7名が死亡、3名が重傷を負った。
獣害事件としては日本で最悪の被害をもたらしている。
施主として大きく名前が掘られているのは、事件当時に対策本部が置かれた大川与三吉
氏の息子である大川春義氏。
事件の影響でヒグマに対して強い復讐心を抱き、生涯で100頭以上を仕留め、北海道の獣害被害減少に貢献した伝説的な猟師である。
その一方で、仕留めた羆(当時は高価で取引された)を住民に無償で譲ったり、犠牲者のために慰霊碑を建立したり、「本当に悪いのは羆ではなく、自分たちの方ではないか?」と自問自答したり。
決して羆に対するシリアルキラーのような人間ではなく、義侠心に溢れた方だったようだ。
前記事の苫前資料館にあった「北海太郎」を仕留めたのは、この春義氏の息子である
高義氏であり、羆と闘い続けた一族なのかもしれない。
なお、春義氏は1985年の三毛別羆事件の70回忌の際に突然倒れて亡くなったという。
1977年に計102頭を仕留めたところで銃を置いたが、そのうち単独で仕留めたのは76頭である。
生年は1909(明治42)年(明治43説もあり)ということなので、一人で仕留めた羆と
同じ数の76まで生き、この世を去ったことになる。
ただの数字の偶然ではあるが、なんとも因縁深い話である。
二礼二拍手一礼。
これを覚えているだけでどこに行っても恥ずかしくない。
フレンチのマナーなんかよりよほど大切なことだ。
ついに舗装がなくなった。ここが現地への入り口だ。
残りは200メートルほど。
いよいよ現地が見えてきた。
現地到着。右手側は軽く駐車場のようになっている。
ありがたいことにすでに来訪者がいた。
配置はこんな感じ。
左下の砂利道から入ってくる。
目立つのは中央奥にある再現家屋くらい。
駐車場側から全体を見渡す。
バイクが停まっている辺りの左に、さきほどの砂利道が来ている。
出ました。
これがこの場所で一番の目玉(?)。
羆を再現した像である。
煽りで撮ると恐ろしさが増す。
サイズまで厳密に再現したかは不明だ。
なにやら修復中のようであった。
先輩、下半身弱いっすね。
家屋の入り口から左側を覗く。
内部は当時の暮らしぶりを再現してある。
右側の壁にはスタンプやパンフレットが置いてある。
未だにここが羆のテリトリーでありことを感じさせる警告文。
家屋裏手の斜面。
そのあたりからひょっこりと現れてきそうで背筋が寒くなる。
こんなふうにね。
他にも羆に引っかかれた木の肌などが残っていたようだが、再び雨も降り出してきたために撤退を余儀なくされた。
ここまで煽っておいてアレだが、実際の現場はここよりもう少し山奥だったり、もっと手前にあったりする(羆が複数箇所に現れたため)。
この場所は代表地点のような役割で整備されたのだ。
わざわざ何度となく訪れる場所ではないし、アクセスを考えると、もう訪れることはないかもしれない。
それでも北海道で生まれ育った人間として、一度くらいは訪れておきたい場所であった。
我々の生活は、本州以南に暮らす人々よりも一層、大自然と隣り合わせなのだ。
苫前町郷土資料館 小さな町の歴史と文化
仕事も忙しくなり、前回の記事から随分時間が経ってしまった。
やっと苫前町郷土資料館の記事を上げることが出来る。
築別・羽幌炭砿で時間を潰し、資料館に到着したのは午前11頃であった。
建物は年季が入っているが、それもそのはず。
もともと町役場として1928年に建てられ、1984年まで使われていたのだ。
新庁舎ができて以後は現在の資料館として運営されている。
入場料は、町外からの高校生・一般来訪者で300円。見ごたえは十分だ。
営業時間など、詳しいことは以下のリンクを参照。
玄関の扉を開けていきなりこれだ。
大きさは170センチくらいだろうか。
横から撮影。
玄関からの光を浴びてラインが浮かび上がる。
この熊は「渓谷の次郎」と呼ばれた6歳のオスで、昭和60年に仕留められた体重350kgの堂々たる体躯だ。
この剥製の後ろに受付があり、お金を払って内部を見学する。
写真などは自由に撮影してかまわないということであった。
建物は入り口を入って左右に展示場が広がる左右対称形だ。
これは建物正面向かって右側の展示場。主に苫前町の歴史と文化に関する展示がある。
そしてこちらが入って左側の展示場。
羆と「三毛別羆事件」に関する展示がまとめられている。
反対側の展示場と比べて展示物は少ないのに、この存在感である。
展示場の半分ほどが三毛別事件の再現セットに当てられている。
手前の鹿は事件とは関係ない。
セットの内部。
今まさに羆が壁を突き破って侵入せんとする様子が再現されている。
今や事件については各所で調べられており、書籍なども出ているのでここではあえて説明しないことにする。
いずれにせよ、こんな状況に出くわしたら人間に出来ることはほとんど無いと言っていいだろう。
こんなに恐ろしい現場を鹿が外から悠々と眺めている。
そしてこいつだ。
本資料館で最大の存在感を放つ、その名も「北海太郎」。
現在のところ、日本最大の羆とされている。
入り口の「渓谷の次郎」を優に超える体長2.43m、体重500kg。
18歳のオスだった。
幻の巨熊としてハンターに追われること実に8年。
羽幌町の山中で冬眠しているところを昭和55年に射止められた。
さきほどまで自分がいた築別にこいつがいたのである。
考えるだけでも恐ろしい。
カメラの設定を間違えていたとは口が裂けても言えない。
撮る角度によって表情が変わるのが興味深い。
下から煽ると口周りの凶暴さがにじみ出るのだが、正面から撮ると思いのほか愛嬌のある顔だ。
とはいえ、こんなやつに襲われたらひとたまりもないだろう。
よく「一番強い動物は何か?」というテーマが議論されることがあるが、筆者は羆がかなり有力だろうと踏んでいる。
牙も毒も使わずに腕力だけで相手を殺せて、体は大きく、その割に時速50km以上で走ることができ、実は木登りや急勾配の登り降りも得意とあっては、なかなか勝ち目のある動物はいないだろう。
なお、熊に襲われた際に現在最も有効だと考えられているのは、「目を逸らさずにゆっくり後ずさりする」ことだという。
ただし過去に、「この対処をしている途中で足を踏み外し、驚いた熊が襲い掛かってきた」という事例があるため、なんとも言えないと筆者は思う。
羆が人間に襲いかかる理由は主に「空腹」と「敵対」がある。
食べるためか、排除するためか、だ。
死んだふりは今となっては論外だそうだが、背中を見せて逃げたり、突然走り出したりするのもアウトだ。
要するに羆を驚かせたり興奮させるような振る舞いはほぼ全てNGということだ。
しばらく前に、海外の男性が自分に向かって突進してきた熊を大声で威嚇し、熊が慌てて森へと逃げていく、という動画が話題になった。
この方法が毎度必ずしも奏功するとは限らないが、最終手段程度に記憶しておくのもいいだろう。
結局のところ、「熊がいそうなところにはいかない」という予防手段が最高の対処法なのだ。
過去の羆事件の多くは、羆出没注意報が出ていたにも関わらず無視して山中に入り、その結果襲われるという自業自得的なものも多かった。
筆者は動物愛護団体のシンパではないが、振り返ると、「そもそもこの大地は羆たちのものだったのだな」という思いもある。
歴史や文明が発達し、筆者自身がその恩恵にあずかっている今、「自然をかつての姿に」などという非現実的考えは一切抱かないが、悲劇的な歴史を繰り返さないようにする責任は人間側にあるようにも思うのだ。
なお、万が一この記事で得た知識で羆関連のトラブルが起きても、筆者は一切責任を負えないのでそのつもりで。
どうしても山や森へ入らなければならないときは、専門家の意見を取り入れ、正しい装備と対処法で挑んでもらいたい。
建物は更に廊下で奥へとつながっている。
その途中にはかつての市長室があり、ここにも剥製などが展示してある。
万国旗と羆の剥製。
よくわからない取り合わせだ。
レトロと言いたいが、壁紙などボロボロになっていているのが気にかかる。
かつてはここで三毛別羆事件に関するビデオテープが流されていたらしいが、この日はやっていなかった。
やけに雑な位置に飾られた鹿の首。
右は多くの受賞盾。
廊下は奥へ伸びる。途中には古いタンスや棚が並べられている。
廊下を抜けたところ。
ちょっとしたホールが現れ、正面奥に展示場。
右前方の扉は開くような雰囲気ではなかった。
扉の更に右側には別の部屋があり。
ただし中はもぬけの殻。
外には「古代の里」という古い住居を展示した広場がある。
そこを見て回ることはなかったが、縄文文化の家、擦文文化の家、アイヌの伝統住居「チセ」などが復元展示されているそうだ。
こちらは奥の展示場。
あまり広くはないが、北海道の古代文化と発展に関する展示がある。
ひときわ存在感を放つのは中央のこれ。
横の説明板によると「獲物を狙う擦文人」ということだが、どう見てもトドに驚いて尻もちをついているようにしか見えない。
なお、このトドは1989年の夏に苫前町の力昼(りきびる)の海岸に打ち上げられたものらしい。
築別炭砿の記事に出てくる「太陽小学校」に関連するが、廃墟探索写真の中にこれと同じような剥製が写っているのを見たことがある。
もしやと思って確認してみたが、顔の向きや表情が違っていたため、別の剥製だったようだ。
一方は町の資料館で人目に触れ、いま一方は廃墟の中で朽ちていくのであった。
現地訪問の前に軽く立ち寄ってみた、町の小さな資料館。
そこには発展してきた北海道の歴史の光と影が記録されていた。
都市部からのアクセスはなかなか大変な場所だが、入館料も安く見ごたえは充分なので、ぜひ一度は訪れてもらいたい場所だ。
次回は三毛別事件の現地訪問記事となるが、仕事が忙しいためいつのアップになるかまったく不明である。
すでに半年以上前の旅行記であるため、できるだけ急ぎたいとは思っている。
ぜひご期待いただきたい。
ではまた、次の記事で。
*1:2016.6.13追記
「栃木県佐野市の山中で登山者の男性が熊に襲われるも、14時間かけて自力で下山し生還する」という事件が発生した。
男性へのインタビュー映像によると、「背中を見せないよう後ずさりしていたが、つまづいてしまい、その拍子に襲いかかられた」ということだった。
再び同じような事例が発生してしまったが、本州ということでおそらくツキノワグマと思われ、それが不幸中の幸いだったかもしれない。
なお、熊鈴は着けていたという。
やはり根本的に逃げることは叶わないので、「刺激しないようじっとしている」、「荷物を取られそうになったら大人しく渡す」、「熊が去るのを待つ」という受動的防衛がベターだろう。
最近では「熊よけスプレー」という強力なツールも出てきている。
唐辛子に含まれる成分・カプサイシンのパワーを増幅させた噴射液で、(商品にもよるが)人間に当たると失明や猛烈な激痛を引き起こすという、かなりな取扱危険物だ。
特に海外製(ほとんど海外製だが)はグリズリーなどの大型野生動物を撃退するために作られているため、より危険である。
有効な能動的防衛策にはなるが、噴射時間が短い、射程が短い、風向きによっては自分が食らう、といった扱いづらさもあるため、一般人が護身用気分で持ち歩ける代物ではないかもしれない。
なにより恐ろしいのは、一部でこれを「催涙スプレー」代わりに携帯しているものが居るということ(鎮圧どころか殺しかねないパワーがある)。
逆にツキノワグマやイノシシのような野生動物ならば、一部の対人用催涙スプレーでも撃退できるらしい。
……といっても確約はできないので、やはり必要がなければ森には入らないのが一番である。
羽幌・築別炭砿 炭鉱町の繁栄と今
明けて旅行の2日目。
寝ては起きてを繰り返し、朝6時に再び起きるも写真を2枚ほど撮影して更に一眠り。
結局出発は朝8時半ごろとなった。
前記事の地図を引用する。
この日は前日なし得なかった苫前資料館&三毛別現地アタックと決めていたが、資料館の開館は朝10時からなのでまだ若干の時間がある。
逆に現地(地図中黄色点)を先に訪れる手もあったのだが、朝っぱらから一人で山奥に行くのも危険と判断。
他の観光客も訪れるであろう時間を狙って訪問時間を調節するため、別の見どころを探す。
そこで、あらかじめふらりと訪れる予定であった築別炭砿が近くであったので、こちらを先に訪問することに。
上の地図中の赤線で囲んだ部分が当該地域。
三毛別と合わせ、この日は南北に移動を繰り返すことになった。
築別炭砿へは、羽幌町ホームページにある「羽幌炭鉱探訪MAP」を利用した。
ちなみに「羽幌炭鉱」なのか「築別炭砿」なのか、統一感はなかった。
町のマップでは「羽幌炭鉱」表記だが、写真のように、道路標識では一貫して「築別炭砿」である(「羽幌炭鉱」表記はなかったように記憶している)。
一応、別々の炭鉱の集合地域ではあるので、どちらにしてもこのあたり一帯を指していると思われる。
あるいは行政的には「羽幌炭鉱」、観光的には「築別炭砿」といった程度の違いかもしれないが、詳しいことは不明である。
羽幌町ホームページより引用。
町から一番遠い上羽幌地域でも約25km。車なら30分前後で行ける。
とはいえ山奥。
トイレなど皆無で、万が一に備えて飲食料、季節によっては虫除けスプレーや熊対策が必要となる。
人・車ともに不測の事態に備えて補給を整えてもらいたい。
筆者は虫除けを忘れてアブに邪魔されたが、熊よけの鈴は持参しておいた。
※どこまで効果があるかは不明だが。
今回は地図中の黄色ルートを時計周りに周ることにした。
海岸沿いを築別地域まで北上し、356号線に入って築別川を遡るルートだ。
地図上で最深部の炭鉱アパートのあたりまで行ったら、Uターンして上羽幌地区へ。
そして西に走って街へと戻る。
最初の見どころは、MAP上では「旧築別駅跡」のはずだが、結論から言えば見つけられなかった。
住宅地をフラフラと走って写真のような砂利道にまで入っていったのだが、遭難しかけたため諦めることに。
家も少なかったが、時間帯のせいもあり歩行者からの聞き取り調査もできなかった。
なお、地図にはないが356号線の途中に廃校が建っていた。
名前は「幌北小学校」。
1960(昭和35)年10月1日に開校し、2005(平成17)年3月31日に閉校したという。
築別小学校と上築別小学校が合併して開校、1990(平成2)年には曙小学校も併合したが、過疎化の波には勝てなかったようだ。
閉校の日に埋められたタイムカプセルが、再び母校を訪れる生徒の姿を待ちわびている。
築別炭砿への道のりは、終始このような山間部の田園風景であった。
この景色は三毛別に向かうときにも基本的には変わらない。
途中、道路は幾度となく築別川を渡る。
道と川が編み物のように何度も交差するのだ。
それだけ橋も多い。
あまりの多さに数えるのも止めた。
天気は相変わらず爽快だ。
道道356号線を表す道路標識。
内地(北海道での本州の呼称)の方は「道道」という表記に違和感を覚えるかもしれないが、「どうどう」と発音する。
アクセントとしては「妄想」とか「競争」と同じだ。
国の道路が「国道」なら(北海)道の道路は「道道」というわけだ。
そしてオロロンラインの主役であるオロロン鳥が描かれている。
実は道路と並行するようにかつての炭鉱線路が通っている。
と言っても大部分は緑に埋もれてしまっているため、唯一、川の上にかかる橋の部分が往時の姿を偲ばせている。
この橋は最初に見つけたものだが、道路にかかる方の橋から見るには少し遠かった。
だいたいの線路橋は(炭鉱に向かって)進行方向右手に見えるはずだ。
二番目に見つけた橋は先程よりも少し近く見えた。
写真二枚目にズーム写真を載せたが、実はこれら築別炭砿の線路が敷かれたのは大東亜戦争開戦直後だということで、よく見ると橋桁のサイズがバラバラであるのがわかる。
間に合わせの資材をかき集めて作ったのだということがよく分かる貴重な産業遺産だ。
さらに山奥へと進んでいく。
周囲は田園風景こそ広がるものの家屋などはほとんど見ることがない。
写真奥に見えるのもどうやら廃屋らしい。
すれ違う車も、ぽつり、ぽつり……。
この旅の第一目的が「三毛別」であるだけに、これまでのドライブでは感じたことのない緊張感が終始続いていた。
羆・アブの危険性と実害のワンツーパンチでなかなか思うように撮影が出来なかった。
これは三つ目の橋だったと記憶している。
双方の橋の距離が一番近かったようだ。
そしてこの橋が最も面白い。
橋桁も橋脚もすべて形も大きさもバラバラなのだ。
いかに間に合わせだったかがよくわかる。
そしてこれらの橋は炭鉱の閉山まで役目を果たし続けたのだ。
これは三つ目の橋の上で来た道を振り返ったところ。
トラクターがのんびりと走っているが、それだけでも心強かった。
実は三つ目の橋は横道から橋の下へと周ることが出来る。
虫・蜘蛛の巣、そして羆の危険性に恐怖しながらも、折角の機会だということで橋の下へ。
幸いにもいずれの危険にも出会うことはなかった。
橋の下は農道になっているようで、すぐ奥が田園地帯になっていた。
地面から橋桁までの高さはせいぜい2メートル前後だ。
奥の水田に動く影を見つけて一瞬立ち止まる。
……どうやら近所の農家の方のようだった。
上を覗くと、すでに枕木やレールと思しき線路の遺物は残っていないようであった。
お気づきだろうか。
なんと支柱までレールを流用したものなのだ。
さらに少し進むと、曙の集落が現れる。
見える範囲に民家が数件だが、視界が多少開けているため、少々安心する。
ここはかつての曙小学校、北辰中学校、そして太陽高等学校らしい。
理由も方法も不明だが、体育館の屋根にロータリー除雪機が載せられていた。
地図で見てもわかるが、上記の学校跡のすぐ横に築別炭砿へと至る道がある。
北東へ左折すると築別炭砿へ至り、直進して道なりに山奥を走るとグルっと周って羽幌の町へと戻ることが出来る。
そちらにも炭鉱遺産があるので、あとで寄ることになる。
またしばらく進むと信号のない交差点にぶつかる。
ここから先はもう築別炭砿エリアだ。
交差点を左に曲がると初山別方面へ抜けられるが、このときは9月いっぱいまで工事で通行止めであった。
実はこの交差点を右折すればすぐに太陽小学校があったのだが、この時は気付かずに直進してしまっていた。
小学校には帰りに寄ることになる。
横目に森の奥の煙突を見ながら北上する。
最初に現れたのはホッパー(貯炭場)だ。
ここに掘った石炭を貯めておき、下にトロッコなどが来ると上から落として積めるというわけだ。
鉄筋コンクリート造で重厚感がある施設だったが、往時はもっと巨大だったようだ。
手前には案内の看板が建てられている。
写真は「鈴木商店記念館」HPより。
白黒写真を見るに、現在残っているのは右下の建物の下部のみのようだ。
白黒写真と見比べると、どうやら横の小さい建物とは斜めの屋根でつながっていたらしい。
というより、左の小さい部分が貨車の入り口だったようだ。
そして背後の山の上には巨大な工場があったのである。
大きな白い看板はかすれて剥がれかかっているが、「羽幌鉱業」?と書いてあったようだ。
内部は薄暗く、周囲は音もなく、ただ不気味であった。
それでもかつてはこの辺り一帯に多くの人々が住み、働き、一つの街を作っていたのだ。
初春や晩秋であれば草木も少なく、建物の状態ももっと具体的にわかったのだろう。
内部に立ち入るのは、看板の呼びかけと当日の装備を踏まえてやめておいた。
何より、少しでも車を離れるのが恐ろしかったのだ。
熊に襲われてから後悔するよりはずっとマシである。
さらに北上して別の交差点にぶつかる。
交差点から右を見たところ。
橋があり、その先には炭鉱アパートの廃墟がある。
交差点の左手には病院の廃墟があるが、草木が生い茂ってわかりづらい。
正式には「羽幌炭鉱鉄道病院」。
一部2階建ての三角屋根だったようだが、今は見る影もない。
別角度からカメラを高く掲げ、茂みの上から撮影。
こういうときにバリアングル液晶が心強い。
屋根はほぼ完全に崩落し、ほとんど壁だけである。
1944(昭和19)年開業、1956(昭和31)年増改築というから、60年以上前の代物だ。
1階の壁はコンクリートのようにも見えるが、そのおかげで骨格は残ったのかもしれない。
二階部分に三角屋根の面影が見える。
念のため交差点を直進してみたが、先程のようにゲートが閉まっており、これ以上は進めなかった。
そもそも進んだところで道のない山奥へと向かうだけなのだが。
Uターンすると左手側に建造物が見える。
おそらく先程の炭鉱アパートであり、これからそちらへと向かう。
正面に見えている煙突の下へは結局行けなかった。
戻って交差点横の橋を渡ると、すぐに遺産群に出会う。
これは上の写真によれば消防団庁舎の跡。
もともと三階建てだったが、よくぞここまで崩壊したものだ。
ここは看板が多い。
かつての築別・羽幌炭砿の繁栄ぶりが説明されている。
すぐ横には炭鉱アパートの廃墟。
見づらいが、中央の細道を挟んで両サイドの木々の裏にアパートが向かい合うように建っている。
航空写真で見る限り、左のアパートの向こうに更に二棟のアパートが続いているようだ。
下は泥の水たまり。両サイドは濃い緑に覆われ、件の恐怖心を更に煽ってくる。
仕方なく車ごと、少しだけ入ってみることに。
このアパートはあまり長く使われなかったらしい。
今でも窓の縁の赤色が鮮やかに残っていた。
アパートの間の道から後ろを振り返った景色。
正面の茂みを分け入っていけば煙突まで行けたらしいが、とてもそんな気にはなれなかった。
左手にも道があったようだが、特に行くことはなかった。
右に伸びている道が橋、交差点、病院跡へ続く道だ。
このあたりは見終えたので太陽小学校へと戻る。
前の交差点まで戻り、太陽小学校へと到着。
ここは学校として使われた後、レクリエーション用の宿泊施設としても使われた。
ガラス類が割れている以外は、建物自体にそこまで大きな損傷は見られない。
この廃墟にも立ち入ったレポートがネット上には数多く上げられている。
羆の剥製に突然出くわし、皆例に漏れず寿命を縮めているそうだ。
ちなみにこの羆の剥製、数カ所のレポートを見るたびに配置が変わっているので、何者かが動かしているようだ。
場合によっては通用口のドアの前に置かれたりしていて、闖入者を楽しませている。
学校の右側には珍しい円形の体育館が残っている。
(窓に筆者と車が反射していたため写真を一部加工)
車ごと入口の前まで移動し、上下左右に危険物がないことを確認して覗かせてもらうことにした。
入り口は二つ並んでいたが、右側は通れそうにない。
内部は圧巻である。
規則正しく円形に組まれた鉄骨屋根は、ブルガリア共産党の廃墟にも通ずるものを感じる。
以上で築別炭砿エリアの見学は終了だ。
山奥を巡る上幌別坑一帯は木々が深くてあまりいい写真も取れなかったため、写真だけまとめて上げることにする。
これらがまとまって建っていたエリアだが、あとは基本的に山中の道路を車で走り続けるだけであった。
築別の炭鉱アパートから、このエリアを通ってはぼろ温泉サンセットプラザまではグーグルマップで約30km、車で1時間15分程度と算出された。
実際は車もほとんど通らない道なのでもう少し短くなるとは思うが、それでもある程度の距離を走ることになる。
人・車ともに充分な補給を整えて欲しい、と冒頭で述べたのはこれが理由だ。
最後に一枚。
通りがかった看板に見つけた「三毛別」の文字。
弥が上にも緊張感が高まる。
少し長くなったが、これで築別炭砿の記事を終える。
次回はいよいよ苫前資料館、そして羆事件の現地へと向かう……。