北海道命名の地 すべてはここから始まった
もたついてしまったが、やっと一年前の旅行記事を終えることが出来る。
このあとも溜まりに溜まっている旅行記事を思い浮かべると先が思いやられるが、終わりは終わりだ。
自分と故郷のルーツを巡る道北旅行の締めに相応しい場所を、本旅行記で最後の記事とする。
午前中に稚内を出発し、往路とは趣向を変えて内陸を南下して帰ることに。
豊富町、幌延町を抜け、天塩川に沿ってのどかな北海道の田園風景を駆け抜けていく。
雲は多いが、天気もよく、心地よい真夏の大地だ。
幌延町の次に中川町に到着。
道の駅「なかがわ」で休憩し、付近を散歩。
道路沿いに案内板を発見。
左下の青い部分が日本海で、左上が北の方向だ。
日本海から伸びる天塩川が青い蛇行した線で描かれており、それに沿うかたちでこの付近の名所旧跡が紹介されている。
色々と寄ってみたいところもあるが、この日は三連休の最終日であり、2連泊の車中泊が思いのほか体にダメージを残していたため、主目的の場所のみを訪れて帰ることを決断。
こちらは道の駅の中の写真。
こちらの中川町では「感染列島」という映画のロケが行われたらしいが、映画を見ていないのでサラッと流す。
さあ、いきなりだが主目的の地に到着。
その名も「北海道命名の地」。
この場所、アクセスは結構悪い。
写真の道路の奥に写るカーブ(中川町方面)からやってきたのだが、カーブの抜けに逆方向に看板が設置されているため、ナビがなければ十中八九見落としていただろう。
南(札幌方面)からやってきた車向けに看板が立てられているために、このような自体になってしまったのだろうが、ぜひとも北向きにも案内を出してほしいものだ。
この看板で折り返す形で右奥の林の中へ車を進めていく。
北海道にとっては結構重要な土地のような気がするが、舗装も派手な案内もなく、「多分ここ」という感覚で進んでいく。
気分はもう三毛別。
実際は道路から林道に入って、比較的すぐに駐車場に到達する。
あまり身構えなくてもいいだろうが、最低限の羆対策は欲しいかもしれない。
ついた。ここが駐車場(というかただの広場)。
駐車場に車を停めると、前方に木々のトンネルが見え、その先に再び広場が見えている。
横には「車両進入禁止」の看板があるが、どう見ても少なくない車の進入痕がある。
旅の前半でいいだけ恐ろしさを学んできたので、筆者もかなり迷ったが、渋々歩いていくことに決めた。
ついに道北旅行最後の地に到着した。
ここが北海道の自然と文化の源流・天塩川に面する北海道命名之地。
丸太で作られた記念碑と案内板が2つあるだけの簡素な広場だ。
記念碑の揮毫は現北海道知事の高橋はるみ氏。
意外なところで行政感を味わった。
そもそも「北海道」の名付け親は、北海道マスターにして生粋の旅行人・松浦武四郎だ。
生涯で6回も蝦夷地(まだ開拓される前の北海道)を探検し、択捉島や樺太にまで赴いている。
彼の尊敬すべきところは、凄まじい好奇心で過酷な旅路に赴いただけでなく、そこで出会ったアイヌ(蝦夷地の原住民)たちと彼らの文化に対して、深い畏敬の念を抱いていたというところだろう。
明治の時代になり、蝦夷地に新しい名前をつけようという話が起こる。
1869(明治2)年に開拓判官となっていた武四郎は、蝦夷地で出会ったアイヌの長老・アエトモから聞いた話を思い出していた。
「アイヌ語では、『この地に生まれた者』のことを『カイ』と呼ぶ」
そこで武四郎は「北のカイの土地」という意味を込め、「北加伊道(ほくかいどう)」という名を提案した。
※ちなみに武四郎は全部で6つの案を提出しており、他に「海北道」「海東道」「日高見(ひたかみ)道」「東北道」「千島道」というものがある。
結局、「北加伊道(ほくかいどう)」が選ばれ、かつての東海道などにならって「北海道」と正式に命名されることになったのが、この北海道という名称の由来である。
……もうすでにお気づきの方、あるいはご存じの方も居るだろう。
そう、来年2018(平成30)年は、北海道命名から150年の節目の年となるのだ。
筆者はつい最近気がついた。
1869年が命名1年目なので、そこから149年足して、2018年でちょうど150年になる。
この道北旅行のラストをこの地の記事で締められたことは意義深いことと思う。
記念碑の前はすぐに天塩川の河原になっており、対岸には宗谷本線が走っている。
しみじみと感慨深いものがあるかと思いきや、筆者は常に羆を警戒しており、それどころではなかった。
去り際、突然林の向こうから物音が!
……と思いきや、観光目的の老夫婦の車がやってきただけだった。
ご婦人に軽く会釈をして、早々と帰路につく。
最後まで羆の恐怖と一人相撲を取り続けた旅であった。
さて、長らくかかってしまったが、これで本当に道北旅行記を終えたいと思う。
ここまでお付き合い頂いた方々には本当に感謝と謝罪の念でいっぱいである。
次回からは、(名前が似ているが)東北旅行(宮城・福島)の記事を上げていきたいと思う。
こちらもぜひお付き合い頂きたい。
それではまた、次回の記事で。
宗谷丘陵 大地に刻まれた二万年の歴史
宗谷岬から車で五分ほど西へ戻る。
途中に道道889号線(上猿払清浜線)への分岐があり、そこから丘陵内へと進むことが出来る。
写真の看板は西側を向いているので、宗谷岬側から来ると気が付かないかもしれない。
道路標識などに注意を払おう。
まあどうしてこの宗谷丘陵を目指したのかといえば、率直に言うと「劇場版ガールズアンドパンツァー(以下「ガルパン」)」にハマってしまったからである。
※アニメとあなどっていたが、結局、通常版・4DX版合わせて10回は観に行ったかと。
劇中でこの宗谷丘陵(をモデルにした地形)が登場していたため気になり、「北海道」「自分のルーツ」「三毛別」など様々なキーワードを加味して総合的に今回の道北旅行に至ったのだ。
……とまあ、言い訳がましく述べてみたが、要は「とにかく行ってみたかったから」という話である。
相変わらずの鹿だらけ。
北海道の海岸部の朝方や夕方の涼しい時間には小奴らが出没しやすい。
なんでも、塩を舐めに来るとか。
こんな感じで小奇麗な舗装道路を進んでいく。
道の両側に広がるのは宗谷丘陵の凹凸である。
まだ早朝も早朝なので、車一台すらやって来ない。
それどころか霧まで出てきて聞こえるのは風の音くらいである。
いったいどこまで続くのだろう。この地形は。
少し高い所まで来た。
このあたりからは宗谷丘陵独特の不思議な地形が観察できる。
そもそもこの丘陵は二万年前の氷河期に形成された地形であり、地学用語では「周氷河地形」と呼ぶそうだ。
地中の水分が凍結と融解を繰り返した結果、このような低い丘と浅い谷を繰り返す独特の地形となる。
特にこの宗谷丘陵は樹木がかなり少ない。
これは明治期に山火事で樹木が消失したせいであり、低気温と強風によってあまり樹木が育たなかったため、このように地形がわかりやすい景色になったのだ。
霧が深まる。
家畜への伝染病を避けるために関係者以外立入禁止となっている宗谷岬牧場。
近くには自衛隊のレーダーサイトもあったようだが、霧のため確認できず。
なお、ガルパン劇場版に登場した高地は、このレーダーサイトが建っている丘と思われる。
姿を目視できなかったのは残念だが、この霧の異世界的な情緒も悪いものではない。
宗谷丘陵といえば忘れてはいけないのはこの「白い道」。
※本人は現場に来るまで忘れていたとは口が裂けても言えない。
稚内の名産といえばご存知「ホタテ」。
この周辺にもいくつもの水産加工場があり、そこで発生したいわゆる「ゴミ」であるホタテの貝殻を洗浄して撒いたものが、この「白い道」なのだ。
ここは歩いても、バイクでも、車でも通行が可能である。
ちなみに歩いても行ける、と書いたが、この白い道を含むハイキングコース(稚内フットパス「宗谷丘陵コース」)が設定されており、全長はロングコースでも11km(4時間)程度だそうだ。
体力と時間に余裕のある方は、景色を楽しみながら最北の地を踏破してみるのもいいだろう。
きっと太陽光と青空があればもっときれいに見えるはずだ。
頭上にはいつもの風力発電。
丘陵にはこれがいくつも建っているので、見渡すことが出来ればそれなりに壮観な景色なのだろう。
一応青看板は立っていたが、気持ちとしてはかなり適当に走り回ったと思う。
やがて標高は下がり、増えてきた木々の間を走り抜ける。
目指すは稚内市街方面だ。
進むほど霧は深く、緑は濃くなっていく。
こういう木々がやや不気味だ。
……などと言っているうちに麓へと戻ってきた。
ここまでくればもう安心だ。
牛は臭いが安心する。
さて、これにて宗谷丘陵の記事は終了とする。
このあとは時系列的には稚内市街に戻り、前夜に訪れた稚内公園や駅周辺などの再撮影を行った。
午前中には稚内市を出発して帰路についたが、その途中でとある場所に立ち寄った。
扱いとしてはおまけ的になってしまうが、今回の長きに渡った道北旅行記事の締めとして、そして来年ーー2018年を迎えるにあたってふさわしい記事になると確信している。
次回はその記事を上げ、本旅行の最終稿としたい。
では、次回もお楽しみに。
宗谷岬 日本最北端の地
稚内駅前で車中泊を敢行したものの、件の騒ぎと車の狭さもあって眠りは浅く。
うたた寝と起床を繰り返したため、翌朝はいっそ早起き(?)して、昇る太陽を宗谷岬から拝むことを計画。
当日の日の出は午前4時頃だったと記憶している。
JR稚内駅から宗谷岬までは30.6km。車で36分(グーグルナビ調べ)。
途中、道路を進軍する鹿の群れと遭遇したりしたが、30分もかかった印象はない。
あるいは眠気が感覚を麻痺させたのだろうか。
ちなみに結論から言うとお天道さまは拝めなかった。
なにせ曇ってたもので。
日昇後も数時間は太陽の姿を見なかったと思う。
またしてもカメラの設定ミスでピンぼけという無能っぷりを披露しつつ、サルベージに成功した写真をいくつか挙げてゆく。
なかなか傷んだ地図だが、右上の突端が宗谷岬。
厳密に言うと地学的な「岬」ではなく、ただ海岸線がカーブして張り出しているだけだという。
いきなりで申し訳ないが、ここが日本最北端の地、宗谷岬の碑だ。
彼は1808(文化5)年からの樺太探検で、樺太が半島ではなく島であることを発見。
現在は間宮海峡にその名を残している。
なお、この海峡は世界的には「タタール海峡」と呼ばれており、日本でもたまに「タタール海峡」や「ダッタン海峡」と表記されることがある。
鳥羽一郎の歌謡曲「韃靼海峡(だったんかいきょう、タタールの中国語表記)」とはこの海峡のことだ。
ちなみにタルタルステーキの「タルタル」も同じ語源らしい。
宗谷岬周辺の海は比較的遠くまで遠浅になっている。
なお当日は天気が悪くて見えなかった模様。
また衝撃的な事実だが、この岬から西北西の沖合に「弁天島」という本当の最北の地(島)があるという。
グーグルマップにも白い大きな岩礁として写っているが、民間人が気軽に上陸できるような場所ではないため、この宗谷岬が実質的な最北端となっているようだ。
宗谷岬側の半島の海岸線はほとんど、海の際まで宗谷丘陵が迫ってきている。
ノシャップ岬側の半島には市街地や農地といった平地が多いように見受けられる。
まったく岬周辺の雰囲気が伝わらず歯がゆい写真ばかりである。
宗谷岬の碑の向かい側も、道路を一本挟んですぐに丘陵が迫ってきている。
まあグーグルストリートビューでみれr
岬周辺は何もないわけではなく、ガソリンスタンドもある。
というか港があり、住宅も建っている。
最北のGSとはいえ、おもったほど高くはない印象。
さすが国岡商店だ。
※ここで給油すると「最北端給油証明書」なるものがもらえるらしいが、筆者はあいにく他所で給油したばかりであった。
丘陵の上から見た宗谷港の様子。
左下に写っているのがさっきのガソリンスタンドだ。
宗谷岬の碑があるところを北端に、半島の海岸沿いを南東に向かって街が伸びている。
パノラマ写真ではないが、碑のある辺りを背にするとこんな景色。
北から順に碑、駐車場、道路、丘陵という並びである。
左の写真の右側に写っている、白い四角い建物の前の坂から宗谷岬公園に上がることが出来る。
建物前の案内板。
公園には記念碑が多い。
坂を登っていくと、稜線にシシ◯様よろしく鹿が出迎えてくれる。
この旅ではキツネを見なかったが、普段の生活では鹿よりもキツネのほうが出会いやすい気がする。あとリス。タヌキ。
登って最初に目に入るのはこの廃墟。
というより、これを目当てに個々に来たフシがある。
以前は上に登れたようだが、この時は柵で封鎖。
これは大岬旧海軍望楼跡。
かつて帝国海軍が対ロシア用に建造した監視所である。
1875(明治8)年の樺太千島交換条約で宗谷海峡が国境となったため、1902(明治35)年に建造された。
1968(昭和43年)に稚内市の有形文化財に指定され、市内に残る唯一の明治期建造物だという。
今では鹿の群れが訪問者を監視している。
この複数の小窓から宗谷海峡を睨んでいたらしい。
なお現在は板のようなもので封鎖されている。
形状を見るに、かつてはこの後ろ側にも建物が続いていたのだろう。
ネットで往時の姿を探してみたが、見つからなかった。
「平和」や「海」に関する石碑がいくつも設置されている。
中でも一番目を引くのがこのツルのようなオブジェ。かなり大きい。
これは1983(昭和58)年9月1日に発生した大韓航空機撃墜事件の慰霊碑「祈りの塔」だ。
事件の二周忌である1985(昭和60)年の同日に建立され、折り鶴のように曲がった先端は撃墜現場(モネロン島)方向を指している。
台座の16枚の羽が犠牲者の国籍数を、張り石の御影石269枚は犠牲者の数を表している。
大岬中学校跡地の碑と祈りの塔。
海軍望楼の名前からも察するに、宗谷岬はかつて「大岬」とも呼ばれていたようだ。
見づらいが、大きく「世界平和」と象られた花壇。
花が咲くともっと見やすくなるのかもしれない。
奥には風車小屋もあり、丘陵の酪農風景の一端を担っている。
最後はまた下に降り、道路脇の宗谷岬神社でお参り。
えらくキレイな社だが、こういうのは気持ちの問題なので。
二礼二拍手一礼。ぜひ覚えよう。
次回の記事ではあの風車の奥に広がる宗谷丘陵へ足を踏み入れる。
※いったん車に戻って別ルートから進入。
道北旅行記事も、(予定では)残すところあと2回だ。
相変わらずのスローペースではあるが、ぜひ最後までお付き合い願いたい。