江田島と音戸の瀬戸公園 海軍要塞と清盛の伝説
しかし生憎の雨。
中々激しく、車から降りるのも大変だった。
また呉湾沿いに、アレイからすこじま方面へと南下していく。
アレイからすこじまについては以下の記事からどうぞ。
途中にはかの有名な、大日本帝国海軍の呉鎮守府(通称:呉鎮)の赤レンガ庁舎がある。
※走行中の車両の助手席から撮影したため、門柱しか収められなかった。
この後も車中からの写真でいいものはあまりなかった。
現在は海上自衛隊の呉地方総監部庁舎として使用されており、日曜日の一般公開時や
特別なイベント時には一般人も立ち入ることが出来るようになっている。
以下に公開に関しての呉地方隊のリンクを貼っておくので、興味のある方はよく参照していただきたい。
碇泊する護衛艦隊を横目に、瀬戸内海へ突き出す半島を南下していく。
次第に雨は激しさを増してゆく。
唐突で申し訳ないが、いきなり到着している。
公園は半島の先にある小高い山の上に作られているが、車で簡単に登れるのでアクセスは決して悪くない。
ちなみにこの写真の場所はまだ中腹である。
先ほどの写真からさらに頂上までの登ると駐車場がある。
実はこの音戸の瀬戸公園、明治時代に広島湾を守る要塞の一部として構築された要塞群の一つなのだ。
この駐車場一帯は旧「高烏(たかがらす)砲台」。
写真の花崗岩のブロックで囲まれた芝の区画が砲座の跡で、ここには明治期の海岸砲として有名な28サンチ榴弾砲が設置される予定であった。
28サンチ榴弾砲は日露戦争で旅順のロシア軍要塞を粉砕するのにも使用された巨砲だ。
この高台には同じ区画が3つある。
※写真の左側に案内看板が見えると思うが、その更に左側が駐車場となっている。
台数はそれほど多くないので、混雑時には停められない可能性もあるので注意だ。
砲座の横には弾薬庫と、そこへ降りる階段が綺麗な状態で残っている。
ただし階段の入り口は柵で閉じられており、降りるのは推奨できない。
こちらは別の弾薬庫。
同様に入ることはできない。
屈んで入り口にカメラを向けてみれば、少しだけ中が見える。
入ったところで横に折れているように見えるが、明治期の要塞で入り口を曲げるのは珍しいように思える。
(空爆もなく、入り口が海を向いているわけでもないので)
昭和期にも使用されたので、あるいはその頃に改築されたのかもしれない。
呉市設置の案内板にある『明治中期の軍港を護る要塞砲の形式としては珍しいものです』という表記はこのことを指しているのだろうか。
ついでなので、軽くこの砲台の由来について触れておこう。
この高烏砲台は明治19年7月の呉軍港設置とともに、敵の艦砲射撃に備える軍港防備の要塞として陸軍が構築を検討したものだ。
陸軍予算として閣議にまで上がったが、結局この時は第一期計画から除外されることになる。
やがて日清戦争を迎えて広島に大本営を置くことになるが、こういった情勢が要塞設置への議論を再燃させた。
……と、ここまではおおよそ案内板の説明通りなのだが、この後の表記が混乱を産んだ。
案内板には『明治二十九年陸軍の手によって砲台、火薬庫、兵舎などの工事が始まり、引き続き同三十二年から三ヶ月の歳月を費やして完了しました(原文ママ)』とある。
筆者が最初に解釈したのは、「明治29年に最初の工事が開始されたが、何らかの理由で工事が中断。結局工事は明治33年の3ヶ月間で完了した」という具合だ。
期間で言えば都合4年。その最後の3ヶ月がラストスパートだったと受け取れる。
が、確認のために他所のウェブサイトを調べてみると、これまた別の解釈が出てきた。
一つは、「3ヶ月」という表記が誤りで、正しくは「3ヶ年」だろうというもの。
筆者は素直に「明治29年~32年なら工事期間は4年間」と計算したが、明治29年の何月に作業が始まり、明治33年の何月に工事が完了したか正確な資料がないので、計算によっては工事の期間を3年と見ることもできそうだ。
となればこの説も頷ける。
もう一つは年月まで特定したサイトで、そこの略年表によると、「明治33年12月に高烏堡塁砲台の起工」、「明治35年6月に高烏堡塁砲台の竣工」とされている。
こちらの年表では工事期間は一年半程度でしかないので、筆者の解釈とも先の説ともかけ離れてしまっている。
結局のところ資料がないので結論は出せないが、一つの事柄に関してここまでデータがブレるのがインターネットの恐ろしさだ。
昨今は大学生もインターネットの情報をレポートや研究に使用したりするようだが、情報の精度には充分に注意を払ってもらいたい。
話は戻って「音戸の瀬戸」の由来となった伝説を。
海峡を見下ろすように建っている「平清盛公日招像」。
平安時代、平清盛が日宋貿易のために開削したのがこの海峡の始まりだ。
10ヶ月の難工事の後、ついに工事は最終日を迎えるが、無情にも太陽は水平線の向こうへと沈んでいこうとする。
そこで見守っていた清盛はすっくと立ち上がり、金の扇を振りかざすと、沈みかけていた夕日は再び高く昇り、ついに工事を終えることに成功した。
……というのが、この音戸の瀬戸に伝わる清盛の「日招き」伝説である。
別のパターンとして「工事を一日で終えるために扇で夕日を扇いだ」というものもあるが、いずれにせよ、清盛がこの瀬戸を開削したことに変わりはないだろう。
やはり生憎の雨で景色もパッとしないが、晴れた日には中々の壮観だろう。
写真中央は音戸の瀬戸にかかる「第二音戸大橋(2013年開通)」。
左側に少し見えているのが古い「音戸大橋(1961年開通)」だ。
どちらも赤いアーチが特徴。
古い音戸大橋は1974年8月に無料化されるまで、普通自動車120円、バス200円、自転車10円、歩行者5円と料金を取られていた。
対岸に見えるのは倉橋島。
その島から更に橋を渡った先に江田島がある。
かなり判りづらいが、写真右から突き出た枝の背後あたりに江田島が薄っすらと見えている(はず)。
呉港方面を望む。
音戸の瀬戸一帯にはツツジが咲き乱れており、4月下旬辺りが見頃とのこと。
この日はゴールデンウィークなので、シーズン的には悪くないのだが、この天気である。
清盛像から下を覗き込むと、兵舎の廃墟が姿を見せる。
※厳密に言うと、山を登ってくる途中ですでに目に入るのだが、今回は一旦上まで上がってみたのだ。
写真では伝わらないが結構激しい雨であり、あまり満足の行く撮影はできなかった。
そしてまさかの、江田島での写真はこの一枚となる。
江田島といえば旧海軍時代から海の男達が心身を鍛える帝国海軍のメッカであるが、実は今回、明確な目的があって訪問したわけではなかった。
何か目につく物があれば、というふんわりした気持ちで来訪したのだが、折からの大雨もあり、結局車で走り抜けた程度で終わってしまった。
物足りないのは筆者も同じであるが、今回の記事はここまでである。
てつのくじら&大和波止場公園 街の中にある巨大潜水艦
街の中にデンと現れた巨大な潜水艦。
退役した海上自衛隊のゆうしお型潜水艦「あきしお(SS-579)」だ。
1986年に竣工し、2004年に退役してここに展示された。
つまり2016年現在、御年30歳となる。
「てつのくじら館」という名前で有名だが、正式には「海上自衛隊呉史料館」であり、資料館自体はこの潜水艦の背後に普通の建物として建っている。
潜水艦をくぐって建物に入り、見学を進めて建物の3階から渡り廊下で潜水艦に入ることが出来る。
大和ミュージアムの記事でも紹介したが、この辺りは施設が集中しているので移動は楽である。
左が大和ミュージアム、奥がてつのくじら館、右が大型ショッピングセンターだ。
ショッピングセンター1階からてつのくじら館は目の前だが、雨の日は注意。
大和ミュージアムの2階窓から見たてつのくじら館。
長い。そしてデカイ。
背後に茶色の資料館本館が見える。
ショッピングセンターから傘を差してささっと歩き、すぐに潜水艦の下に入った。
写真上部、胴体に着いた雨による水の筋が見えるだろうか。
普通の建物の屋根ではなく、頭上に巨大な船舶が浮いている、というある種の非現実感はまさに圧巻である。
開館時間はまさに公務員の勤務時間帯。
毎週火曜定休(火曜が祝日だと翌日が休館)なので、訪問の際は注意だ。
中では現役自衛官(確認済)と退役自衛官(らしき人)が通路の案内などをしていた。
展示内容は海上自衛隊の歴史に始まり、潜水艦を前面に出しているだけに機雷・魚雷・
潜水艦に関する展示が多かった。
艦内を再現した区画や、実際に覗ける潜望鏡などもあり、ここでしかできない体験が数多く存在する。
驚いたのは、第二次世界大戦時の潜水艦の望遠鏡性能比較コーナーで、日本側の望遠鏡はなんとあの「伊400型潜水艦」のものであった。
伊400といえば当時世界最大の「潜水空母」だ。
潜水艦でありながら艦内に3機の水上機を収容可能という最先端兵器であったが、真価を発揮せぬまま終戦を迎えてしまった。
そんな伊400型の望遠鏡がここにあった(伊400のものとは言っておらず、あるいは日本の潜水艦はどれも同じ望遠鏡を装備していた可能性もある)。
本体はガラスケースに囲まれているが、実際に遠くにある呉港のクレーンなどを覗き見ることができる。
米軍のもあるが、比べてみると日本軍のほうが光学機器の技術は優っていたようだ。
いよいよ渡り廊下を伝って潜水艦あきしおの中へと足を踏み入れる。
内部は撮影禁止であり、当日は混んでいたので細部をじっくり見るわけにはいかなかったが、それでも普段決して見ることのできない貴重な体験ができた。
見どころは、
・艦が役目を終えた時間で止まった時計
・実際に外部を見てもいい潜望鏡
・見学のために隔壁に開けられた通路(!)
といったところか。
現役の潜水艦では隔壁の出入りには円形のハッチを通るのだが、一般人でも見学しやすいように壁をぶち抜いて通路を作ってあったのだ。
潜望鏡のある部屋では、タイミングによっては室内灯を真っ赤な光に変えてくれることもあるようだが、筆者の訪れた時にはなかった。
入り口から見た出口の渡り廊下。
そう、見学コースはさほど長くはないのだ。
入って前方に進んであそこから出てくるだけ。
それでも現役に近い潜水艦の中を見れるのだから、それだけで御の字だ。
出口から見上げた潜水艦の艦橋。
本当に巨大である。
このまま海に発進しそうなほど艶々しい外観だ。
続いて、大和波止場公園だ。
大和波止場公園は大和ミュージアムのすぐ裏にある。
駐車場には徹甲弾型の柵。
大和ミュージアムはガラス張りなので、裏からでもライトアップされた館内が見える。
美しいので、開館中にやってもいいと思うのだが。
誰もいなくなった展示室。
あるいは、閉館後でも外から見学できるようにするためのライトアップであろうか。
屋外展示としては、この「しんかい」がある。
日本初の有人深海調査艇で、実用最高深度は600メートル。
1970年から日本近海の海底調査で多数の成果を上げたが、母船とともに老朽化して1977年に引退となった。
その後は後継の「しんかい2000」および「しんかい6500」が引き継いでいる。
ちなみに後継の2隻は「海洋研究開発機構(JAMSTEC)」の所属だが、「しんかい」は海上保安庁の所属だそうだ。
そのため現在、海上保安庁が保有した唯一の潜水艇となっている。
しんかいと反対側には別の展示施設があったが、中は空っぽで案内板も真っ黒だった。
後に調べてみると、ここには水中翼船「金星」があったが、老朽化で撤去されてしまったという。
日本の屋外展示はどうしていつも、こういう憂き目に合うのだろうか。
さて園内でまず目に留まるのは、この見慣れない構造物だ。
これは戦艦大和の艦橋の最上部を模した休憩所だ。
実はこの大和波止場は、戦艦大和の甲板をそれとなく再現した構造になっている。
写真中のオレンジの線で囲まれた部分を再現しており、大和の巨大さがわかる演出になっている。
グーグルマップで見てみると一目瞭然だ。
地面は大和の武装の種類と位置を象ったタイル張りになっている。
写真は対空兵装の25ミリ3連装機銃。
そしてこの機銃が乗っているのが大和の46センチ3連装主砲塔だ。
機銃の奥に46センチ砲の太い砲身(のタイル)が見える。
艦首の方へ向かうと緩やかな上り坂になっており、よりリアリティのある作りになっている。
すぐ奥は海で、この日は風が強かったために波が飛沫をあげていた。
大和の先から呉の港を望む。
先程から位置は少しずれているが、振り返れば大和ミュージアムと丸いドームのフェリーターミナルが見える。
大和艦首の緩やかな上り坂が判るだろうか。
こちらはiPhoneのパノラマモードで撮影したもの。
艦首は見事に半分だけ再現されており、横には錨が展示されている。
なお艦首の材質は、よく公園のオブジェなどに使われている表面のゴツゴツしたもの(モルタル?)だった。
戦艦大和の主錨と書いてあるが、こちらは実物大の複製品らしい。
フェリーが入港してくる。
風が強く、波が岸壁に打ち付けられて今にも飲み込まれそうだった。
これは何だったのだろうか。
大和波止場自体の見どころは以上だ。
この公園単体を目的に訪れることはないだろうが、大和ミュージアムやてつのくじら館のついでに歩いて散策するには調度良いだろう。
最後に、戻りがてら再び撮影した周辺の画像を載せてゆく。
夜になるとちゃんと舷灯が点灯する。
こちらは左舷なので赤色。反対側はおそらく緑色に光っているはずだ。
ホテルから呉市の夜景を一枚。
これにて呉市観光は終了。
次の記事では、江田島方面へと出向いた記録を掲載したい。
大和ミュージアム 海軍の記憶
アレイからすこじま(下記記事参照)から呉港沿いに北上すると、かの有名な大和ミュージアムの案内が交通標識に登場する。
ちなみに広島空港からは大和ミュージアムのほうが近いのだが、開館時間の関係でアレイからすこじまを先に訪れた。
訪問の際は宿泊地との距離やアクセスルートを確認してもらいたいが、どちらのスポットも呉港沿いにあるので、車移動ならばそれほど苦にはならないだろう。
フェリーターミナルと大和ミュージアムは隣接しているが、それらと道路を挟んだ迎え側には大和ミュージアムの巨大な駐車場がある。
この駐車場は隣のショッピングセンターと接続しているので、あるいは駐車場を共有しているのかもしれない。
この駐車場1階に大和ミュージアムとは別の土産店があり、2階には映画「男たちの大和」で使用したセットの一部があるという噂だが、筆者は訪問時に知らかなったため逃してしまった。
※以下、日没後に撮影した写真もあるが、ご了承いただきたい。
この辺りには大和ミュージアム(写真左)、てつのくじら館(写真奥、潜水艦および背後の建物。次回掲載予定)、ショッピングセンター(潜水艦の船尾方向)、フェリーターミナル(大和ミュージアムの更に左隣)などが集まっており、見どころは豊富だ。
ショッピングセンターはフェリーターミナルと屋根のある空中廊下でつながっているため、雨の日でも道路を渡るのは容易だ(実際に助かった)。
ただ、大和ミュージアム、てつのくじら館それぞれの入り口までは一度屋外を通る必要があるので、雨の日は傘が必須だ。
こちらが大和ミュージアム。
閉館後のなので人が捌けた後だが、開館時は青いコーンの列に従ってカーブの右奥まで行列ができていた。
GWという時期も大いに影響している上、常時長い行列ができている様子でもなかったので、繁忙期でもそこまで身構える必要はないかもしれない。
ただし、入れても中まで空いているとは限らない。
参考までに、入り口そばの土産物店はこうなっていた。
屋外には戦艦陸奥から引き揚げられた主砲身や錨などが展示してあり、開館時間を問わずいつでも見学できる。
戦艦陸奥は、1943年6月8日に呉港の沖合にある柱島(当時海軍の泊地があり、現在は山口県岩国市に所属する島)付近で、碇泊中に謎の大爆発を起こして沈没した。
原因は未だに不明だが、火薬の自然発火説や水兵による自爆説などがある。
いずれにせよ、陸奥は1,121人の命とともに海中に没した。
死亡者の多くが溺死ではなく爆死であったり、砲塔が艦橋と同じ高さまで飛び上がったという目撃談もあることから、その爆発の衝撃が想像される。
これら展示物は1971年からのサルベージ作業で回収された物だ。
ここの展示物以外の回収物としては、戦前に作られて海中にあったため核実験の影響を受けなかった陸奥の船体の金属で、戦後日本の原子力産業を支えたいわゆる「陸奥鉄」がある。
展示物の前には案内板もあり、夜はライトアップもされていて昼とはまたひと味違った印象が味わえる。
なお、陸奥からの回収物は全国各地に展示されており、回収できなかった船体の一部が今も柱島沖に沈んでいる。
前置きが長くなったが、早速中へ入ってみよう。
受付を終えてメインの展示場と入ると、そこには大和ミュージアムの代名詞でもある巨大な戦艦大和の模型が鎮座している。
全長は26.3メートル。
1/10模型であり、実際の大和は全長が263メートルもあった。
※入場料は一般(大学生以上)500円だが、当日何度でも再入場可能だった。
右舷後方から見たところ。
見学者と比べて、その巨大さがお分かりいただけるだろうか。
大和の代名詞、46センチ三連装砲塔。右から第一砲塔、第二砲塔。
左に少しだけ見えているのは15.5センチ副砲だ。
「超長距離から一方的に砲撃すれば、ダメージを受けずに相手を一方的に沈められる」という思想は、「弾が敵に当たる」という前提がなければ当然成り立たない。
そして太平洋戦争中、戦艦大和が「確実に」敵艦艇を撃沈したという記録はない。
時代はすでに航空機による対艦攻撃が主流となっており、その時代を切り開いたのもまた大日本帝国海軍自身であった。
大和は1945年4月7日、天一号作戦(沖縄方面への水上特攻作戦)に使用され、敵の集中攻撃を受けながら奮戦した末に、大爆発を起こして2,740名の乗員とともに鹿児島県坊ノ岬沖の海中に没した。
大和を沈めたのは、帝国海軍が自身で開拓したはずの航空攻撃によるものだった。
カタパルト上に設置された零式水上観測機。
これで主砲弾の弾着を観測し、修正するはずであった。
その一方で米軍はレーダーを開発していた。
艤装は最終改装後の対空兵装強化状態を再現している。
ハリネズミのように天を衝く対空機銃の数々。
大和は現在、第一主砲塔と第二主砲塔の辺りから前後に断裂した状態で海底に沈んでいる。
前半分は右に傾き、後ろ半分は完全にひっくり返っている。
周囲からは主砲および主砲塔が発見されておらず、海中に埋まっているか、沈降中に脱落して別の場所にあると考えられている。
※軍艦の主砲塔は基本的に船体に刺さっているだけなので、船体がひっくり返ると主砲塔はスッポ抜けてしまう。
水深は345メートル。東京タワーが縦に一本沈むほどの深さに大和は眠っている。
現在、有志によって大和の引揚計画が練られている他、呉市が今年(2016年)の5月に潜水調査を行った。
撮影された映像は現在大和ミュージアムにて公開されている。
国家機密として誕生し、国民の多くがその存在を知らぬまま海中に消えた戦艦大和。
時を経てそんな大和の実像が解明されてゆく中、「海の墓標を静かに留め置け」という声もある。
余談ではあるが、戦艦陸奥や愛媛県の海中で発見された戦闘機「紫電改」の引き揚げドキュメントなどを観ると、そこには多くの遺族や関係者が参列しており、みな一様に「引き揚げてもらえてよかった」「よく帰ってきたね」といった感想を漏らしている。
(テレビ局の故意な編集でなければ)遺族としては、亡き家族が帰ってきたように嬉しい気持ちがあるのだろう。
俳優の石坂浩二氏が、ご自身の出演していた「開運なんでも鑑定団」に出品された際に自費で購入。
その後、より多くの人々に見てもらいたいという意志で大和ミュージアムに寄贈されたものだ。
折りたたまれてしまっているのが残念だが、横の案内板には展開した状態の軍艦旗と石坂氏の並んだ写真が掲示してある。
この関係で一時期、石坂氏は大和ミュージアムの名誉館長をされていたという。
続いて大和の隣の展示室へと歩みを進める。
こちらには旧海軍の魚雷や弾薬、そして特殊潜航艇「海龍」と零式艦上戦闘機が展示されている。
展示されている海龍は垂直尾翼が欠損している。
本来の尾翼は上下左右の十字型をしているそうだ。
その他にも船体には傷やヘコミが多い。
こちらは同室の零戦六二型。
1945年8月6日夕刻にエンジントラブルで琵琶湖に不時着した機体を、1978年1月に引き揚げたものだが、機体後部など失われていた部分は復元されている。
六二型は零戦の量産型としては最終形で、戦闘爆撃機(爆戦)として爆弾を装備できるようになっていた。
機体の下にあるのは25番(250kg)爆弾で、特攻機として使用された機体には500kg爆弾を装備したものもあったそうだ。
武装は翼内に20ミリ機銃、13.2ミリ機銃をそれぞれ二丁装備し、操縦席前方にも13.2ミリ機銃を一丁装備している。
珍しいものとしては、翼の下面に小型ロケット用のレールが装備されている。
計器盤は復元されたものだと記述があったが、その他、特に照準器なども30年以上水中にあったことを思うと、おそらくは複製品だと思われる。
大和展示室に劣らず、こちらも見どころ十分な展示室であった。
展示とは関係ないのだが、ご覧のように展示室を囲むように通路が設置してあり、大和の展示室も同様である。
通路はガラスの壁面で覆ってあるが、下の人間が頭上を見上げると見学者の姿が丸見えなので、特に女性の方はコーディネートに気をつけたほうが良いだろう。
ミュージアム側にもガラスの下半分を擦りガラスにするなど、対応を期待する。
展示室は他にも幾つかあり、大きなスクリーンのあるシアターも併設されている。
上映内容は時期や時間によって異なり、企画展などもあるので、ぜひ訪問時期とよく相談してもらいたい。
最後にいくつか写真を掲載して本記事の締めとする。
さあ、いかがだったろうか。
多くの観覧者にとって「大和ミュージアムに行ったこと」、「大和ミュージアムマークのお土産を買ったこと」が重要視されているような芋洗い状態ではあったが、ここは博物館であり本質的には展示物を見て得た記憶や見識が最大の習得物であるはずだ。
……などと言いつつ、かくいう筆者も「零戦タンブラー」と「聯合艦隊湯呑み」、「連合艦隊下敷き」を購入してしまった。
デザインは良かったのだが、タンブラーは飲み物に金属の味が染み出してくる上に4,000円弱もする商品だった。
しかもネットで(大和ミュージアムショップじゃなくても)販売しているため、わざわざ現地で購入する必要もなかった。
食器や文房具に戦艦大和を始めとした帝国海軍の名前をペタペタ貼り付けて高額で売るという手法には疑問を抱かざるをえないが、消費者には確固たる「買わない」という権利もあり、そこで欲に負けてしまう己の愚かさを呪うしか無いのだろう。
戦後70年以上を経て、今なお人々を魅了してやまない史上最大の戦艦大和。
彼女と共に海底に眠る多くの英霊たちに我々が出来ることは、彼らの記録や記憶を「知る」ということではないだろうか。